「なまえさん」

 扉越しから、くぐもった声が伝う。それに気付かないフリをして、蓋するように扉へ背を預ける。木の扉が撓りをあげた。わたしはまだ、エレンとどう接していったらいいのかわかっていない。こんな状態ではエレンに向ける顔がない。

 シガンシナ区出身のわたしは訓練兵になる前のエレンを知っていた。無邪気でやんちゃな男の子だったエレン。意思が強く、自身を曲げるというのを許さず、結果、近所の男の子たちとの衝突も絶えなかった。そんな素直で真っ直ぐなエレンをわたしは知っている。

だけど、彼が巨人になれると知って、わたしの中での存在がひどく揺らいだ。エレンがほかの巨人のように、人間を襲うことがないというのはトロスト区の一件で立証されている。でも、どうしても信じることができない。巨人は憎むべき相手であり、共闘する相手ではないという長年の常識が受容を拒む。

 憎むべき対象である巨人に成る、という行為に対し、エレンは巨人を殺せるならばとその力を受け入れたようだったが、わたしはそう簡単に割り切れない。いくら人を襲わないとはいえ、巨人は巨人なのだ。

わたしの知っている姿のエレン。巨人の姿のエレン。どちらもエレンの姿。そう頭では理解していても、体がそれを受け入れない。気付けば、わたしはエレンを避けるようになった。

 でも、エレンだって馬鹿じゃない。昔のようにおばけがいるよと言って意識をそらせるほど小さくはない。もう一介の兵士として戦えるほど、大きいのだ。エレンは気付いている。わたしが露骨に接触を避けていることに。だからこそ、エレンはこうしてわたしと話をするために部屋へ来ているのだ。

「なまえさん。開けますよ」

 何も言わないわたしに痺れを切らし、控え気味にそう言うとエレンはゆっくりと部屋の扉を開けた。背を預けていたわたしの体はエレンの力に抗えず、扉の前へと弾かれる。視界の端に、エレンの姿を捉え、顔を手で覆う。真っ暗な闇が包み込む。エレンがなまえさん、と名を呼んだ。

「見ないで」
「俺を見てください」
「嫌……。あっちに行って、エレン」

 こんな弱々しい姿をエレンに見せたくなかった。彼の中では強いお姉さんのままでありたい、という小さなプライドが声を張り上げさせる。それでもエレンは部屋から立ち去らず、わたしの前に立ち続けた。ややあって、エレンがわたしの手に触れた。わたしの手すらいとも簡単に包み込んでしまうような大きな手で、わたしの指をひとつずつ剥がしていく。露になったわたしの顔をエレンは金色のひとみで見つめた。

「……泣いているのかと思いました」
「泣いてないわ」
「じゃあ笑ってください。なまえさんは笑顔が一番似合います」
「……」
「昔みたいに、笑ってくれよ」

 強く、握った手をつかむ。エレンの手はとても熱く、矢のように真っ直ぐに突き刺さる視線が痛い。わたしだって、笑いたい。昔のように、エレンと喋りたい。触れたい。だから笑おうとしたけれども、わたしの浮かべた表情は笑顔と呼ぶにはあまりにも歪な形をしていた。



笑えない(20131013)