三日ぶりに帰ってきた世界は、下に飛び降りる前と何一つ変わっていなかった。
巨大で荘厳な建物とそれを取り巻く小ぶりの塔。ここからでは見えないが、その中心にいるのが神である父だ。

下で出会った綺麗な男との会話を思い出し、自然と緩む頬に手を当てる。
楽しかった。初めて自分と同じ年齢の人間と会話をした。美味しいものも食べられたし、何よりも彼は自分と友になってくれると言った。これ以上、嬉しい事があるだろうか。生まれたから今まで孤独だった自分に、初めて友ができたのだ。

その友は自分の道は自分で決めるべきだと言った。
けれど、どうしてそんな事が俺にできるだろうか。
俺の存在する意義は、それだけだというのに。
でも、もしも。もしも自分が自分の生きたい道を選べるのだとしたら。

…俺は、どういう道を選ぶのだろうか。



「神の子!」
「やっとお帰りになられたのですね!」



ぼんやりと突っ立っている俺を見つけた召使たちが、そこかしこから駆け寄ってくる。
一人の手が俺の乱れた衣を直し、一人の手が俺の髪を整え、一人の髪が俺の着物の裾に触れようとして、俺はその気持ちの悪さに全てを振りほどいた。
振り払われた召使はその場に倒れ込み、周りに溢れている者たちも驚いたように俺を見つめた。
そのたくさんの瞳に晒されて、俺は湧き上がる衝動のまま言葉を放った。



「触るな」
「え……」
「神の子?一体、何を……」
「俺に、触るな」



自分でも驚く程に冷たい声。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただただどす黒い感情が心の中を埋め尽くしていた。
俺の言葉に打たれたかのように、召使たちが一斉にその場に低頭する。
それを見下しながら、俺はまだ自分の行く末をどうするべきなのか決められずに揺れていた。



「神の子……口を開いても構いませんか?」
「……いいよ」
「神が……お父様が、お呼びです」
「どうして?」
「お役目継ぎの為のお話だとか」
「そう……俺は一人で行く。誰もついて来ないで良い」
「けれど……」
「俺に、逆らうの?」



冷たく問えば、召使はめっそうもない、と言って顔を下げた。それを一瞥し、衣を掻き合わせながら踵を返す。
真っすぐに続く道はいつもよりもぐにゃぐにゃと現実味がないような気がして、ひどく落ち着かなかった。





この世界の主が鎮座する建物の中は意外と質素な造りだ。主本人がそれを望んだからだろう。
裸足の足が上げる、ぺたぺたという音を聞きながら廊下を進む。その先には巨大な扉があって、その向こうに父である神がいるはずだ。
扉を見上げて一度ため息を吐き、腕を伸ばしてノックした。返答は返らなかったが、それはいつもの事なので、気にせずに扉を軽く押す。巨大な扉だけれども、意外とその重さは大したことがなく、俺一人の力で開くことができる。



「父さん、俺を呼びましたか?」
「あぁ、ようやく帰ったか。そろそろ連れ戻そうかと思っていた」
「危害は加えられてません。むしろ、色々と楽しませて貰いました。だから、彼の事は放っておいてください」
「お前がそういうならば、まぁいいだろう。それよりも、そろそろ役目を継ぐ準備をしてもらおうと思う」
「……父さん、俺は、」
「まずは下界に何かしらの接触を試みる時の事を説明しようか」
「父さん」
「それとも、人に影響を与える方法が良いか?」
「父さん!」



半ば絶叫。そこまで声を張り上げて、ようやく神は言葉を止める。
胡乱、というのが一番正しい瞳が俺を映し、その中にほんの少しだけ怒りが滲んでいる。



「何だ。先ほどから、何が不満だ」
「俺は……俺はあなたを継ぎたくなんかない!俺は……!」



ずっとずっと思っていた。神の仕事になど興味は無くて、この狭い世界にも何の意味も見出せなくて。
願っていたのはたった一つ。下に降りて、自由に暮らしたい。
けれど、そんな事を誰かに言えるはずも無くて、ずるずると俺はここまで生きてきた。

それが間違いだと教えてくれたのは彼だ。人間なのに博識で、少し傷つけられたけどそれを十分補えるくらいの優しさも貰った。
俺の身の上話を真剣に聞いて、それは可笑しいという声を上げてくれた。
だから、俺は自分の道を選びたい。俺自身の手で、俺自身の道を。



「何を愚かな。そんな事がまかり通るとでも思っているのか」
「これは俺の人生です。俺の生きたいように生きさせてください」
「生まれた時に告げたはずだ。お前は私を継ぐためだけに生まれた来たのだと」
「それは俺の意思じゃない!俺はそんな事を望んでいない!俺は……俺は自由に生きたい!!」
「………私の命令を聞けないというのなら、お前を生かしておく必要はない。今すぐにここでお前の存在を消してやろう」
「父さん!」



無造作に向けられた掌がどんな意味を持つのか俺は分からない。けれど、あの掌に囚われて死んでいった人間はいくらでも見てきた。何人も、何人も、ただ死んでいった。
のろのろと後ずさり、俺は無力な自分を恥じる。やっと何かを見つけたのに、ここで終わってしまうのだろうか。
俺の意思とは関係のない意味のためだけに造られたように、意味を為せなくなったために消されてしまうのだろうか。

神の目を茫然と見上げ、その瞳が彼に似ているような気がして、少しだけおかしくなった。
微かに緩んだ頬を見咎めたのか、神が不遜に眉を顰める。



「何がおかしい。お前は恐ろしくはないのか」
「……だって、俺は元々造られたものです。終わりが来たからって、嘆く必要もないでしょう?」
「終わりを享受するならば、何故私の命令を遵守できない!?それがお前の運命なのだ。それを何故理解しない?」
「俺に教えてくれた人がいたんです」「何だと?」
「自分の道は自分で決めるべきだと、そう諭してくれた人がいた。だから、俺は自分の道を選びます。あなたに強要されないために、俺は死ぬんです」
「……下らんな。ならば、こうしてやろう。お前の処分は止めだ。神の子としての権利を剥奪する。貧弱な人間となり下がり、下界で暮らすが良い!」
「……え?」
「最早待ったは聞かん。最後に一度だけ衣を使う事を許可しよう。私の前から消え去れ!」



神が俺に指を突きつける。その瞬間にがくりと全身から何かが抜け出たような感覚がして、その場に膝をつく。
走ってもいないのに荒れた息を抑えながら、俺はのろのろと立ち上がった。



「父さん」
「………」
「今まで、ありがとうございました」



背を向けて精一杯の速さで走りだす。背後からは何の音も聞こえてこなかった。
沈黙だけが、俺の背中を押していた。




駆けて駆けて、この世界の端っこに辿り着く。衣を抱き締めて、一度だけ振り返った。
産まれてから、ずっと過ごしてきた世界。少しだけ名残惜しくて、けれども最早何も残ってはいない世界。
召使たちが遠巻きにこちらを見つめていて、それに手を振ってみる。返事は帰って来なかったけれど、残念だとも思わなかった。

とん、と地面を蹴って後ろに飛ぶと、全身を風が包み込んだ。
青い青い空が、遙か彼方で俺を見ていた。





降り立ったのは泉。彼と出会った、あの泉。
着地に失敗して挫いてしまった足を撫で、もう使えなくなってしまった衣をそっと抱き締める。
動けないままぼんやりと泉を見つめていると、ふいに足音が響いた。

頭だけで振り返ると、そこには息を切らした彼の姿があって、俺は情けなく手を上げる。



「足、挫いちゃった」
「な、ぜ……戻ってきた」
「だって、君が言ったんだろう?蓮二」



にっこりと微笑んで、告げた。



「道は自分で決めろって。これが、俺の決めた道だよ」






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