空から人間が落ちてきたときには、一体何の冗談かと己の目を疑った。
そうして茫然と空を見上げている間も彼(そう、その人間は男だった)は落ち続け、けれど地面に叩きつけられる前に宙に浮き上がり、足を揃えて音もなく着地する。
半透明な薄絹の衣がひらりと揺れて、風もないのに彼の身体に絡みついてそしてまた宙に靡いた。

彼は辺りをきょろきょろと見回し、何故か俺はその視線から逃れるように木々の隙間に隠れてしまった。
誰もいない(本当は俺がいるが見えなかったのだろう)事を確認した彼は、そうっと何かを恐れるように足を踏み出した。
一切音を立てずに彼は歩き、俺から少し離れた木々にその衣を引っかける。その動作があまりに優雅で美しかった。

風に衣が揺れる様を彼は少しの間眺め、そしてやっとそれに背を向けた。
俺の目的でもあった泉(水を汲みに来たのだ)に向かい、興味深げにその中を覗き込む。何かを確認するみたいに水に触れて、彼は小さく声を発した。



「これなら……」



意味の分からない言葉を呟き、彼は彼が落ちてきた空を見上げる。誰かに合図を送るかのように一度手を振ると、驚くべきことにその場で服を脱ぎはじめた。
元々木にかけた衣の下には薄い絹織りの着物のようなものしか着ていなかったようで、それを脱いだ彼は今、生まれたままの姿だった。
それはあまりにも美しく、神々しく、まるで神が手ずから気にかけた存在であるかのようだった。

けれど、次の瞬間そんな事はどうでも良くなる。
彼が降ってきたのと同じように、空から次々と人間が落ちてきたからだ。
そうして落ちてきた人間たちは彼と同じようにふわりと宙に浮いて着地し、衣を次々と木の枝にかけていく。
たくさんの衣が風に揺られながら、木々からゆらりとその身を垂れた。



「この水はとても綺麗だよ」
「まぁ、本当?」
「やっと沐浴ができるのね」



おそらく、次々と舞い降りてきたたくさんの女たち(彼以外はみな女だ)は彼の仲間なのだろう。
仲よさげに言葉を交わした女たちも、彼と同じく来ていた着物を脱ぎ棄てて水に飛び込んでいく。
水しぶきがあがり、またたく間に泉の中にたくさんの人間が浸かっているという奇妙な光景が出来上がった。

この者たちは一体何なのだろう。空高くから落ちてきた時点で普通の人間ではない。
宙に浮くなど、神にしかできない所業だ。ならば、この者たちは神の使い――――天女なのだろうか。
そんな事をつらつらと考え、俺は思わず頭を抱えそうになる。天女は巻き絵物語に出てくる空想の生物ではなかったのか。本当にいるものなのか、それとも俺が幻想を見ているだけなのか。
誰かを呼んでくれば簡単に分かる事だが、目を離せば全てが消えてしまいそうでそれもできない。


(そうだ。捕まえてしまえばいい)

(最初に降りてきたあの天女……いや、男でも天女というのかは分からないが……あいつの衣は近くにある。あれをとってしまえばいいだろう)


そう決めればさっさと行動してしまう方が良い。天女たちがいつまで沐浴をするか、俺には予想がつかない。

密かに身を起こし、音をたてないようにゆっくりと木々の隙間を歩く。天女たちから見えないように気を配ったが、幸い彼女らは沐浴に夢中でこちらにことなど見ていなかった。
彼が衣をかけた木に近づき、そろりそろりと手を伸ばす。身を隠したままではなかなか難しかったが、どうにかそれを掴む事に成功した。後は風に揺れるそれを思い切り引いて、木の陰に隠してしまうだけ。
そうして俺は衣を手に入れ、また木々の隙間に身を隠した。ちらりと泉を見てみたが、こちらに気づいた様子はなく、ホッと一息ついた。


(さて、これからどうするべきか)


衣は取ったが、これで彼が消えてしまうのを防げるのか。そこはまだデータ不足で曖昧だが、勝負に出るしかないだろう。
衣を手に持っていると彼に取り返される心配がある。どこかに隠しておくのが妥当かもしれない。
そう思いつき、辺りを軽く見回す。すると、俺の頭より少し高い所に小さなうろがあった。先ほど見た彼の身長とうろを比べてみる。


(……98%の確率で彼の手は届かない)


そう結論付けて、そのうろの中に衣を押し込んだ。場所を覚えておくのは得意だ。忘れてしまう心配もないし、彼が見つける確率は限りなく0%に近い。
あとは他の天女たちを追っ払ってしまうだけ。もしくは、全てが終わるのを待つか。けれど、それでは他の天女たちが彼を連れて行ってしまうかもしれない。
難しい所だが、他の天女を追い払う方が確実性が増すだろう。

決まってしまえば方法は簡単だ。目の前に出て、驚いたような声を上げれば良い。
それを実行すべく木々をかき分けて泉の前に飛び出すと、天女たちの視線が一斉に俺に突き刺さった。
一拍遅れて悲鳴と、激しい水音。
こんなに大きな反応が返ってくるとは思ってもみなかった。俺はただ茫然と彼女たちが衣を引っつかみ、着物を羽織って天に帰っていく様子を見守った。声を出す隙もなかった。



「俺の、俺の衣……」



阿呆のように天を見上げてぼんやりしていると、困ったような声が耳に飛び込んでくる。
完全に彼の事を失念していた。慌てて視線を下ろすと、着物を羽織り怯えた様な目でこちらを見つめている彼と目があった。
衣がないと飛べないのか。どうやら、俺は勝利したようだ。



「お前は一体何だ?」
「………」
「天女か?それとも、他の何かか?」
「……知らない。俺の衣を返して」
「教えてくれたら返そう。それまでは返さない」
「……どうして」
「俺はお前に興味を持った。ただそれだけだ。少し俺に付き合ってくれればそれで良い。話を聞かせてくれないか」
「話につきあったら、衣を返してくれるかい?」
「勿論だ」



断言して頷くと、彼は警戒をその瞳ににじませたまま静かに頷いた。完全に着直しきれていない着物が揺れる。
先ほどまで衣がかかっていた木の傍に座り込んでいる彼に近づき手を差し伸べる。



「さぁ、行こう」
「……あぁ」



彼の言葉には絶望や悲嘆や嘆願の響きが入り混じっていて、それを聞くと少し気分が良かった。
どうやら、俺は征服することに執着心を見せるようだ。彼を捕まえたいと思ったのも、そのせいかもしれない。
そんな事を思いながら手を伸ばしてきた彼の腕を掴み、強く引きずる。彼が上げる痛い、という悲鳴がひどく耳に心地よかった。






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