昼日中でも日光が射す事の無い城はいつでも薄暗い。自分の呼吸する音が響くのを感じながら、柳生は静かに足を踏み出した。
無意識に身構える自分を自覚しながら、意味もなく息を殺してゆっくりと進む。広いエントランスを抜ければ、迷路のような廊下が広がり、辺りを埋め尽くす暗い闇が不気味な生き物のように揺れていた。


「……魔王の城、ですか……」


人気のない廊下をそっと進めば、時折灯されている小さな蝋燭の炎が風圧で揺れた。その度にぐにゃりと歪む自分の影に怯えながら杖に縋る様にして足を進める。

魔王と話がしたい、と真剣な面持ちで彼は告げた。
その言葉の真意がどこにあるのか、これまで同じ目的だけを見つめていた筈の彼が今何を見ているのか。何一つ理解する事は出来なかったけれど、柳生はただ静かに頷いた。
覚悟を決めてしまったかのように真剣な表情をしていた彼を遮る事などできなかったし、何より魔王の瞳の奥に沈む闇を見てしまっていたから。

ひどく、昏い瞳だった。
何もかもを諦めて、そして全てを拒絶する事で自分を守っている野生動物のような目。
相手は魔王で、倒さねばならない敵だと分かっているのに、助けたいと思ってしまった。

助けたいなんて、自分のエゴでしかないとは分かっているのだけれど。


「それで……ここは、どこでしょうか」


彼は毎日のように城の中に入り魔王を探していたが、柳生がこの城に足を踏み入れたのは最初の二回を合わせてたったの四回だ。後の二回は彼に付き合って中に入り、出口を見失わないように少し辺りを散策しただけですぐに外に出てしまった。
道を見失えば、城から出られなくなってしまうのではないか。そんな嫌な予感が脳裏を過ぎった。

白骨化した自分の姿が一瞬浮かび、次の瞬間響いた甲高い音でその幻覚が掻き消される。
何か物が落ちるような、そんな音。音が響いた方向に足を向けて、迷ってしまわないよう注意しながら廊下を走る。
上がる息を押し殺し、突き当たりの扉をそっと開けば、エントランスとよく似た巨大な空間が広がっていた。中央に置かれた重厚な食卓と椅子、規則正しく並べられた食器が埃を被って鈍く輝いている。

音の出所を探して部屋を見回せば、主賓席の椅子に冷たい瞳の魔王が腰掛けているのが目に入った。


「――――また来たのかい、人間」


低く呟かれた声が、どんよりと床を這って柳生に届く。同時に解放された魔王の魔力が部屋に満ちていくのが感じられた。
身構える自分を意識して抑えながら、静かに声を上げた。


「先程の、音は……」
「音? ……あぁ、ちょっと気分が悪くてね、食器を割ったんだ」


そう言って、魔王がおざなりに床を示す。元は美しかったのだろうくすんだ絨毯の上に、食器の破片が散らばっていた。割れる前は美しい陶器の皿だったのだろうけれど、今の姿では破片に描かれた模様が憐みを誘うだけだ。
続く言葉もなくそれを見つめていると、不意に破片の一部に赤い雫が落ちた。


「怪我、を……」


魔王の白い指先から赤い筋が描かれていた。食器の破片で切ったのか、その勢いは激しい。
掠れた柳生の声を聞き逃したのか、それとも無視をしたのか。魔王は自らの傷に興味を示す事は無く、どこかぼんやりとした瞳で宙を見つめていた。
そっと食堂の中に足を踏み入れ、なるべく音を立てないように息を殺して魔王に近づく。その間も赤い雫は零れ続けていて、破片だけでなく絨毯までもを赤く染めていた。

傷ついた者を癒すのが自分の役目だと、柳生は知っている。
勿論、光魔法で敵を攻撃する事もできるけれど、それは自分の本質ではないのだ。あくまで自分は人を助け、人を救う為にある。
その対象に魔王を含めても構わないのかどうか、はっきりとした自信はないのだけれど。


「あの……」
「―――なんだい?」
「お怪我をされているようですが、よろしければ治療をさせてもらえませんか?」
「怪我?」


ようやく気づいた、という反応で魔王が自らの手を見やる。流れ続ける血が魔王の手を染め、徐々に服にまで浸透していた。
痛みを感じていないのか、怪我を負って時間が経っていないおかげで麻痺しているのか。魔王は怪訝そうに目を細めてから、柳生に視線を戻した。


「怪我を――なんだって?」
「私は光魔法を使う者です。怪我を負っている貴方を放っておけません」
「だから俺の怪我を光魔法で治す、って?」
「ええ。貴方さえよければ、是非そうさせていただきたいのです」


ようやく魔王の瞳がしっかりと柳生を映す。ぼんやりと焦点が合っていなかった表情が不思議そうな色を浮かべ、次いでその口元がじわりと裂けた。


「人間が何を言いだすのかと思えば……俺が人間ならそれで構わないだろうけどね。俺は魔王だよ。光の魔法で傷を癒せるはずがないだろう」
「……そう、なのでしょうか」
「試した事なんてないけどね。むしろ俺にとっては身体に悪そうだ」


皮肉げな笑みを浮かべて、魔王が視線を逸らす。拒絶の意志をはっきりと受けたような気がしたけれど、だからと言ってすごすごと諦める訳にはいかなかった。


「ここで、何をしてらっしゃるのですか?」


返事は、ない。魔王は意識を何処かに飛ばしてしまったかのように無反応だった。
落ちる血の雫だけが規則正しく床を赤く染めていく。それが魔王の心に刻まれた傷のように思えて、ひどく心が痛んだ。
そっと導衣の中に手を入れ、緊急用の簡単な医療道具を取り出す。力を使い果たしてしまった時や魔法を使う余裕がない時に応急処置をするための道具だ。それを手に魔王に近づいて傷ついた方の手に触れると、すぐにその手を振り払われた。


「俺に、触るな」
「傷の手当てをさせてください。こんなに血を流してしまうと、倒れてしまいます」
「君たちはそれを望んでこんな所まで来たんだろう。今更何を言っているんだい」
「……分かりません。けれど、私は今あなたを倒したいとは思っていないのです。傷を負っているあなたを放っておくような非道な事はできません」
「非道、ね。俺がその言葉の化身と言っても良い存在だという事は、重々承知しているんだろう?」


皮肉を淡々と呟いて、魔王が蔑むような笑みを浮かべて柳生を見た。


「俺こそが魔王。この世界を乱す者。そんな存在が怪我をしているからって、君が心配する理由はどこにもないよ」
「……魔王、が」


辺りに満ちる魔力は冷たく、肌を刺すような刺々しさがある。それがいつでも柳生を押し潰してしまえることはよく分かっていた。
だからこそ、かすれた声で言葉を募る。


「魔王が私達と同じ人間の姿をしているとは、思ったこともありませんでした。私達と同じように生きているものだと、生活しているのだと、思いが――感情が、あるのだと、思ったこともありません。魔王は、魔王。私達の生活の安寧を総べる太陽神に牙剥く者。この世界から排除すべきものだと、ずっと思っていたのです」
「……その認識は、少なくとも君たちにとっては正解だろう。何故、今になってそれを疑うんだい?」
「分かりません。どうして自分がこんな事をしているのかさえ、私には分からないです。けれど、あなたが傷ついているのを見ているのは哀しい。本当に、それだけは確かな事です」


だから、と続く言葉を聞かぬうちに、唐突に魔王が立ち上がる。振り払うように動かされた手から血が弾け、湿った音を立てて辺りに飛び散った。


「……よくもそんな綺麗事が言えるものだね」
「待ってください、私はっ!」
「これまで来た人間は、俺が待てと言っても待った事なんてない。それとも―――」


ふわりと優雅に跳躍した身体が食堂の扉の前に音もなく着地する。
ぽたりと血を落としながら魔王が振り返り、吐き捨てるように呟いた。


「自分たちはこれまでの人間とは違うと、そう言うつもりかい?」
「……っ」
「同じだろう、人間なんて。俺とは違う、別の生き物。それだけが、確かな事だよ」


頬に散った魔王の血が、ひどく生ぬるい。反射的にあてた手に、それがねっとりと絡みついた。

身を翻し、魔王の姿が扉の向こう側へと消える。繋ぐ言葉もなくそれを見送ってから、柳生は喉の奥からうめき声を絞り出した。


「……綺麗事だとは、分かっているのです。けれど―――」


それでも、と呟いた声はどこにも届かずに消えて行った。



第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -