雲を踏んで歩いていた

ふわふわと頼りのないそれは、いつでもかろうじてわたしをのせてくれた
周りに広がるのは見た事のない景色ばかりで、進んでも進んでも誰もいない
呼べる名前もなく、わたしはただ雲の上を歩き続けていた

長い間、とても長い間、ずっと






茜色の地面






彼に連れてこられたブシツという部屋には大量の黄色いボールが転がっていた。それを追いかけ爪で叩くと、ころころと転がってとても面白い。
笑い声が聞こえて振り返ると、彼がとても優しい目つきでわたしを見ていた。



「さて、と。俺たちはそろそろ授業に戻らなくちゃならないんだ。次が六限目だから、一時間くらいで帰ってくるよ。それまでここで待っていてくれるかな?」
『分かったわ。本当はジュギョウというものをうけてみたいけれど、わたしじゃ無理なのね』
「ごめんね。少しの辛抱だから」
『大丈夫よ。いってらっしゃい。ここで大人しく待ってるわ』



ふわふわと尻尾を振ってみせると、彼はにっこりと微笑んで部屋の外へ出ていく。
ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉められると、遠ざかっていく足音が響き、やがてそれも消えた。



『……狭苦しい所ね』



ぼそりと呟くと、それが痛いほど耳に響いて、思わず顔をしかめてしまった。
勿論彼の前でそんなことは絶対に言わない。失礼にも程があるからだ。

辺りを見回すと、先ほどの黄色いボールに奇妙な形をした棒などが辺りに散らばっていて、かなりごちゃごちゃしている。
幸い埃っぽいということはなく、安心して床の上を歩くことができた。
埃というのは不思議なものだ。公園などには絶対にないのに、こういう人間が住む建物の中には必ずあるのだから。



『うーん、暇ね。折角ここまで来たのに、暇に戻ってしまったわ。……………でもまぁ、仕方ないわね』



先ぶれも何もなく、いきなりここへ来てしまった自分が悪いのだ。
きょろきょろとあたりを見回すと、高い所に窓があるのが見えた。とてもわたしでは届かないような高さだが、それは別に構わない。
目的はその下にある暖かそうな太陽の光だ。
そこだけ明るい床に近づき、ゆったりと身を下ろす。ほのかな暖かさが気持ちよく、ごろごろと喉を鳴らした。
こうしてのんびりと昼寝をする時間は嫌いじゃない。いつもの場所じゃない、という違和感はあったものの、太陽の気持ちよさには勝てなかった。

薄れていく意識の中で大きな音が聞こえた気がした。





がちゃんという音と同時に意識が覚醒し、いつもと違う床の感覚に素早く身を起こした。
そういえば彼の所に来ていたのだと思いだし、ほっとした瞬間に声が上がった。



「……何故、ここに猫がいるのだ」
「ふむ、白猫だな。雑種のようだ」
「そんなことはどうでもいい!俺が言いたいのはそういうことではなく……!」
「うるさいぞ、猫が怯えているだろう」



別に怯えてはいなかった。むしろ、滑稽なほど大声をあげている人間を観察するのに忙しくて、怒鳴り声など聞こえていない。
彼以上に大きな二人の人間。怒鳴った方は黒い帽子をかぶって、それを諌めた方は何故だか目を閉じている。



「さて、弦一郎。この猫は一体どうしてこの中に居たのだと思う?」
「俺が知っているわけがなかろう。迷い込んだのではないか?」
「ちゃんと施錠されていた部室の中に、か?見たところ窓も閉じているようだし、侵入できる経路はどこにもないぞ」
「それはそうだが………」
「十中八九、誰かが入れたのだろうな。登下校中にでも拾ってきたのだろう。部室は一時の隠し場所としては申し分ない」
「そんな事を言っている場合か!とっとと外に出すぞ」
「おや、弦一郎。もしかしてお前は猫が苦手か?そんなデータはないのだが……」
「神聖な部室に猫を入れていいはずがなかろう!第一、幸村が知ったら何を言うか………」
「俺は別に何も言わないけど?」
「…………いつからそこに居たのだ、幸村」
「真田がぎゃあぎゃあ怒鳴ってる時から。あ、ちなみにその猫は俺のだから。下手な事したら……分かってるよね?」



彼は含みのある声で帽子をかぶった人間にそう告げ、その脇を通り抜けて中に入ってくる。
目を閉じている人間は何事もなかったかのようにそれに続くが、帽子の人間は苦虫を噛み潰したような顔でこっちを見ていた。



「それで、何故ここに猫がいる?」
「俺の知り合いなんだけどね。迷い込んできたらしくて。帰りに住処に送っていくつもりなんだ」
「そうか。中に入れたのもお前だな?」
「その通り。丁度いい隠し場所だなと思って」
「部長が良いというのなら構わないだろう?弦一郎」
「……あぁ」


じっとりとこちらを睨みつける帽子の人間はため息交じりに頷いて、抱えていた大きな荷物を床に下ろす。
彼と目を閉じている人間も同じような荷物を持っていて、どれもこれも重たそうだった。



「ごめんね、待たせてしまったかな」
『いいのよ、別に。気持ちよく眠ることができたもの』
「今から部活なんだけど、君はどうする?」
『そうね……外に出ても大丈夫なら外に行くわ』
「多分先生は来ないから、一緒に外にいようか」
「幸村……言葉が分かるのか?」
「…………さぁ、ね。さて、さっさと準備して部活を始めようか」
「精市、その前に猫を撫でても構わないか?」
「その子に聞いてみてよ。別に俺の飼い猫ってわけじゃないから」
「ふむ、そうしよう」



そう言って頷き、目を閉じっぱなしの人間はゆっくりとした足取りで近づいてくる。
近づけば近づくほどその身体は大きく見えて、思わずじりじりと後ろに下がってしまった。



「そう怖がるな。別に捕って喰いはしない」
「猫なんて美味しくなさそうだしね」
「……そう言う問題か」



じりじりと伸びてくる手と、じりじりと後ろに下がるわたし。
その二つの距離は平行線でそれを守っていれば捕まることはないと思っていたのだけれど─────…。

ふいにずっと閉ざれていた瞳が開いた。眼光に射抜かれる、というのはこういう気持ちだろうか。
ぞっとする感覚が一瞬で全身を包み込み、思いがけずその場で硬直してしまう。
鋭い光を放つその瞳に囚われた感覚。瞼の奥に広がっていた黒い闇に魅せられているうちに、いつの間にか宙に浮いていた。
背中に走る、引っ張られるような奇妙な感触。背中の皮をつまみ上げられているのだと、一瞬遅れて気づいた。



「蓮二、その持ち方はどうかと思うけど」
「そうか?猫の背中の皮はだぶついているから、つまみ上げても痛みは無いはずだ」
「そう言う事を言いたいんじゃないんだけどね。というより、そんなに本気にならなくても」
「じりじり下がるものだからつい、な。ふむ、なかなか綺麗な毛並だな。野良猫にしては良い生活を送っているようだ」
『こんな体勢で褒められたって嬉しくないわ!放してよ!それに野良猫っていわないで!』
「怒ってるよ、蓮二」
「ああ、そのようだな」



ふわ、と一瞬の浮遊感と手足に戻ってきた地面の感覚。
慌てて背中に顔を回してみても、毛が乱れている程度で痛みは無かった。
目を閉ざしている人間に視線を向けると、あの黒い瞳は消えていて、そこには無表情の顔があるだけ。
先ほどの鋭さは見間違いかと思うけれど、本当のところがどうなのかは分からない。



「あーっ、猫じゃん!」
「おや、本当ですね。何故こんな所に………」
「丸井先輩、喰わないでくださいよ!」
「喰うわけないだろ、ばかや!」
「まぁ落ち着けって……」
「ぷり」



賑やかになったな、と彼が呟いてわたしを見る。
その瞳がやけに楽しそうな光を放っている気がしたのは、気のせいだろうか。





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