名を失ったのかと遠い昔誰かに聞かれた。
うんと頷くと、その誰かはわたしの頭を撫でて可哀想にと呟いた。
住処はとさらに尋ねられて黙って首を振ると、可哀想にという声が大きくなった。
何が可哀想なのかわたしにはちっとも分からなくて、でもわたしは可哀想なんだね、とその言葉を鵜呑みにして笑った。

可哀想、の意味が分からなかった。






雲の果て






白く続く壁に沿って歩いているとふいにその壁が途切れて、壁の途切れるギリギリのところにぎんぎら輝くプレートがあった。
さすがにそこに何と書かれているのかまでは分からなくて、わたしは黙って尾を振る。
ちらりと壁の傍から首を突き出して中を覗いてみると、全く同じ服を着こんだ人間が何人も広い場所を走っていて、ぐるぐる同じ所を回っていた。



『なぁに、あれ』



小さく呟いて尚も観察すると、人間たちが回っている軌跡はほぼ円に近い楕円。その中心には一人だけ服の違う人間がいて、そいつだけは走っていない。
好奇心に駆られたけれど、ここで飛び出して中に入ってもいいのかの判断がつかなかった。果たして、猫のわたしはガッコウに入っても許されるのか。

そんな事をしばらく考えて、とりあえず隠れて入った方が良いんじゃないかという結論に達する。
だって、あんなにたくさんの人間がいる所に飛び出すのは少し怖いから。
人間に良いイメージはあまりない。わたしを見て、嫌な反応をする人は少なくない。まぁ、可愛がってくれる人もいるにはいるけれど。


そろりと白い壁の内側に滑り込み、人の目につかないように塀に沿って走る。
タッタッタッ、と小刻みな足音が耳に心地よくて、わたしは自然と気分が良くなっていく。
そうしてしばらく走ると、ふいに視界が開けた。緑色の変な地面が目の前に広がって、じゃりじゃりした触感がすごく気持ち悪い。

………わたしは、この感覚を知っているような気がする。
この光景を、この感覚を、この既視感を。



「あ、猫だー」
「可愛い、真っ白だよ」
「なんでこんな所にいるんだろうね」



人間の声。耳に飛び込んできたそれに飛びあがり、咄嗟に辺りを見回す。
少し離れた所に先程走っていた人間とは違う服を着た人間がこちらを見ていた。
話の内容的に嫌なことをされることはないと思う。むしろ、あれはわたしを可愛がってくれる態度だ。

そろりそろりと人間に近寄っていくと、そのうちの一人がポケットから小さな袋を取り出した。
風に乗って届く、甘い匂い。



「クッキー食べるかなぁ?」
「どうだろ?猫はソーセージとかじゃない?」
「そもそも、何そのクッキー」
「丸井君にあげようと思って作ってきたの」



丸井。丸井は知ってる。甘いものばっかり食べる大喰らいの人間の名前。彼の仲間の名前だ。
尻尾を振りながら近づいて、美味しそうな匂いを放つクッキーを一齧り。甘すぎず、後味がすごくいい。
お礼の代わりににゃあと一声鳴くと、可愛いという言葉と共に手が頭上から降ってくる。ぐりぐりと多少乱暴に撫でられたけれど、そこはまぁ我慢しなくちゃいけない。
そのまま黙って撫でられていると、人間たちは誰からともなくわたしに手を振って立ち去って行った。
それを大人しく見送り、その場に座って考える。彼は一体どこにいるだろう。折角ここまで来たのだから、一目会って帰りたいのだけれど。


その願いはすぐに叶った。
背後から、聞き慣れた声がした。



「あれ?君は……」
「にゃおーん」



振り返りながら声を上げると、予想通り彼がいた。いつもと同じ服を着て、手にたくさん荷物を持っていた。
駆け寄るなんて無様な真似はしない。黙ってゆっくりと近づくのが優雅な近づき方だ。
するりと足に尾を絡ませると、彼は荷物を地面に置いて背中をそっと撫でてくれた。



「どうしてこんな所にいるんだい?」
『あなたを、追いかけてきたのよ』
「校内で動物を飼っちゃいけない決まりがあるから、捕まったら放り出されちゃうよ」
『捕まるようなへまはしないわ』
「君なら、簡単に逃げるだろうけど」
『当たり前でしょう?』



噛みあわない会話を交わしながら、わたしはごろごろと喉を鳴らす。
彼は困ったような顔でわたしを撫でていたが、ふいに隣に置いたままの荷物を見てため息をついた。



「俺はね、これを職員室に運ばなきゃならないんだ。だから構ってあげられないよ」
『一人でも大丈夫よ』
「何かあげたいけど、何も持ってないし……さすがに職員室には連れていけないしね」
『ここで待ってるわ』
「さて、どうし……」
「幸村、お前さん何しとるんじゃ」
「あぁ、仁王。またサボりかい?」
「そうじゃけど……お前さんもか?」
「俺がそんなことするわけないだろ。荷物を届けるように言われてるんだ」
「そーか。で、その猫は?」
「俺の知り合いなんだけど……あ、いい事思いついた」



彼の唐突な提案に、わたしと名も知らぬ銀髪の少年は奇しくも同じ声を上げることになった。



「『はぁ?』」





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