振り返ることができなかった
ただ闇の中を走ることしかできなかった

にゃあという声が響いた気がして

名前を、呼ばれた気がした






風化する指先






逃げるようにして帰った家で、妹が泣いていた。
ごめんなさい、と舌足らずな口調で何度も謝る姿を見ると、返事をすることができなかった。

キリちゃんはどこへ行ったの。
そう尋ねる母親に、はっきりとした言葉を返すことすらできなかった。


俺は一体、何をしたんだろう。
何が、したかったのだろう。


目を閉じると、闇の中、小さな白猫がベンチに座っている。
長い尾をだらりと垂らし、にゃあと静かに鳴きながら、猫はただ座っている。
尾は動かないし、その身体もまた動くことはない。

あの子はずっと、あそこに一人ぼっちなのだ。



「………×××」



ぽつりと唇から零れ落ちたのは猫の名前ではなくて。

結局最後まで、諦める事の出来なかった少女の名前。

そして、それとほぼ同時に響く、甘い猫の呼びかけ。



「どうして……」



どうして、名前を呼んだのだろう。
あんなにも甘く、優しい声で。
あんなにも、愛おしいものを包み込むかのように。


問いかけても返事は返らない。
ごめん、と小さく呟くと、にゃあという声が聞こえたような気がした。






「猫は死に際を人には見せないという」
「……どうしたのさ、いきなり」
「ふと浮かんだだけだ。気にするな」



そう言って薄く笑みを浮かべる友人を軽く睨みつけると、彼は堪えた風もなく肩をすくめた。

あの白い猫がいなくなってから、かなりの時間がたった。
最初は泣いていた妹も、今では猫の事を忘れてしまったかのように元気に遊びまわっている。



「猫はいなくなったのか」
「……もう、いないよ」



詳細を語らずにはっきりとそう言えば、それ以上は聞いては来なかった。
それを気にかけることなく、前だけを見ながら廊下を進む。

ちらりと窓の外を見やれば、どこまでも青い空が広がっていた。



「猫はどうして死に際を見せないの」
「……死という概念はどちらかと言えば、畏怖の対象に入る。生きていた頃とは全く違う、変わり果てた姿だ。それを見せないために、猫は死期を悟ると人から逃げるんだ」
「そう、なんだ」
「看取ってやりたいと思うのが人間だが、その気持ちは猫にとってはあまりにも重い負担になる、ということだな」
「……何が言いたいのさ」



じろりと、先ほどよりも強く睨み付けると、友人も珍しく黒曜の瞳を覗かせて見返してきた。



「ひどい顔をしているぞ」
「……そんなこと、」
「俺だけではない。仁王と柳生を初め、あの弦一郎にまで気づかれている」
「……うげ」
「気に病む理由が分からないでもないが……もう過ぎたことだろう」



そう諭す友人の目に浮かぶのは、以前のような憐憫の情ではなくて。
ひたすらに俺の事を心配する気持ちだけが浮かんでいた。
なんとなく、その事実にほっとしながら無言でうなずく。

約束を交わした彼女はその約束を悔やみながら逝ってしまった。
だから、謝りたくてずっとずっと探していた。
他の誰でもなく、自分にならば彼女を見つけられると思っていた。

見つからない彼女の代わりに、不思議な白猫と出会った。
慕ってくれる白猫に、彼女の姿を重ねる事しかできなかった。
白猫はそれを嘆きながら、遠くへと逝ってしまった。



「置いて行ってほしいと、あの子に頼まれたんだ」
「そうか」
「だから、俺は……」



望みを叶えただけだった。
けれどそれは、明らかにあの子を見捨てる行為。
きっとあの子はもうこの世にはいないだろう。
彼女と同じ、真っ白い世界へ行ってしまったのだろう。



『精市』



甘い、砂糖菓子のような声が木霊する。
雲のように全身を包み込んで、どこまでも優しく響いている。

彼女と少しも似ていない声だった。



「ねぇ、蓮二」
「どうした」
「空が、青いや」
「……そう、だな」



もう俺の手の届かないところで、彼女とあの子は笑っているだろう。
あの子は人間が嫌いだと言っていたけれど、きっと彼女とならうまくやっていける。

見上げた空に、白い影が二つ。
ゆらりゆらりと寄り添っていたような、そんな気がした。




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