彼女の願いがこだまする


名を呼んであげてね


思えば、最初から最後まであの白い少女は勝手なままだった
わたしにすべてを願うだけ願って、そして消えていった

残された者の思いも知らないで






失くせない夜明け






幼子の手の中はとても暖かかった。

こっそりとわたしを布でくるんで家を抜け出した少女は、わたしの告げるまま息を切らして走っている。

もうすぐ彼が帰ってくるだろう。
部屋の中にいないわたしを見て、彼はどんな顔をするだろうか。
家に妹もいないと知って、何を考えるだろうか。

少女の顔を見上げ、にゃあと鳴くと、幼い顔がにっこりと笑顔になる。



「こっちであってる?」
『大丈夫よ。もうちょっと真っ直ぐ』



見覚えのある景色を眺め、わたしは空気の匂いを嗅ぐ。
久々の外の空気はとてもおいしく感じられた。部屋の中の空気は流れることがなくて、どこか淀んでいたのだ。

少女が足を緩め、そのうち歩きだす。
それに気づいて視線を前に向ければ、あの公園に辿りついていた。



「ここでいいの?」
『ええ。あのベンチに運んでくれる?』



少女は一つ頷いて、わたしをいつものベンチにそっと寝かせてくれる。
そのあと困ったように辺りを見回す少女を見上げて、わたしは少しだけ罪悪感を覚える。
関係のないこの子を巻き込んではいけないと分かっていたけれど、ここに来るにはどうしてもこの子の協力が必要だった。



『……あのね、わたしはしばらくここにいるわ。そのうち、彼が迎えに来るの』
「おにいちゃんが?」
『そういう、約束だから。だから、先に帰って大丈夫よ』
「んーと……でも、キリちゃん、ひとりでだいじょうぶ?」
『わたしは大丈夫よ』



少女は迷うように視線を彷徨わせ、何度か小さく唸る。



『あなたはあんまり遅くなると、お母さんに怒られるでしょう?』
「……うん」
『もうすぐ暗くなるから、早く帰った方が良いわ』
「……でもぉ……」
『彼がすぐに迎えに来るわ。ちょっとの間だから、大丈夫よ』



だから、さぁ、と促せば、少女はしぶしぶ踵を返した。
何度も何度も振り返りながら、公園を出て家へと帰っていく。

それを見送ってぼんやりと公園を眺めた。
少女に言った言葉に嘘はない。
もうすぐ彼はガッコウとブカツを終えて帰ってくるだろうし、彼女がいなくなると母親が心配するだろう。
人間も猫も、女は子を守るものだから。

そんな事を考えて、ゆっくりと目を閉じた。
全身に感じる風が、いつもの住処に戻ってきたということを知らせてくる。
匂いもまた、懐かしいものだった。
しばらく離れていたけれど、ここに新しい猫が住み着いた様子はない。
その事実にほっとしながら、わたしはじっと待っている。

彼がやってくるのを、昔と同じように待ち続ける。





夕日が落ち、闇が辺りを包み、公園の明かりがついた頃、聞きなれた足音が近づいてきた。
目を開き、おざなりに視線を入り口に向ける。闇を見通す猫の瞳が、彼の姿をとらえていた。

それを視界で確認してから、彼がわたしの名前を呼んでいることに気づく。
返事のために一度鳴けば、彼の足の速さが増した。



「キリ!」
『ブカツは終わったの?』
「そんなことはどうでもいい! どうしてこんなところに来たんだ!」



怒りを抱く彼の瞳を静かに見返せば、彼が言葉に詰まって口を閉ざす。



「とにかく、帰ろう。君はもう昔みたいにここに住むことは……」
『精市』



囁くような声で、甘い甘い、優しい声で。
きっと彼女が呼んだだろうその呼び方と、できる限り似るように。

わたしは彼の名を呼ぶと、彼の身体が硬直した。
白い毛並に触れる寸前で止まった手を震わせて、彼がわたしの顔を見つめる。



「な、にを……」
『あの子に、頼まれたから』



身勝手な願いばかりだった。
けれど、どれも彼女にはもうできないことだった。



『……ねぇ、もう終わりにしたいの』
「終わ、り?」
『彼女の願いはすべて叶えたわ。そして、わたしはもう疲れてしまった。だからね、お願いよ、もう終わらせて』



この苦しみを、悲しみを、痛みを。

檻の中に閉じ込められてしまった苦しみを。
四角い空を見上げるだけの悲しみを。
全てを失ってしまった痛みを。

そして、それらを終わらせることすらできない虚しさを。



「そんなことっ……!」
『お願いよ。わたしの事を大切に想うなら、どうかそうして』



それがわたしの望みで、幸せだ。
ただ生きるだけの今は、あまりにも辛すぎる。


彼は言葉を失ってしまったかのように口を開閉させ、伸ばしていた手を引っ込めた。
躊躇うように何度も何度も視線を彷徨わせ、そして最後に俯いてしまった。



『看取って欲しいとは言わないわ。猫は死に際を大切な人には見せない。その人の心の中でずっと生きていられるように。だからお願いよ。わたしをあなたの心の中で生きさせて』
「…………」
『置いて行くだけでいいの。この公園で、一人で……』



悲しみを背負わせはしない。
これはわたしのわがままだから。

俯いた彼ににゃあと鳴いた。
びくりと震えた彼に、もう一度鳴く。
その度に彼の顔は歪んだけれど、それでもわたしは鳴いた。



「…………キリ……」
『なあに?』
「俺は、君を……苦しめてしまったのかな」
『いいえ』
「でも……」
『これはわたしのわがままだわ。あなたは悪くないし、もちろん彼女も悪くない』



彼は顔を歪めたままその言葉を聞き、そっと手を伸ばしてきた。
背中を撫でる手を、全身に力を込めて首を回し、一舐めする。



『本当にありがとう。あなたの家はとてもとても暖かかった。できることなら、最初からあなたの家に生まれていたかった』



じわりと、ふいに彼の輪郭が歪んだような気がした。
そんなのはきっと気のせいだけれど。

猫は泣けない。
ただ、苦しみも悲しみも痛みも、すべてを込めて鳴くだけだ。

彼の頬を滑る雫がほたほたと背中に落ちる。
彼がわたしを抱きしめたあの日のように、わたしはそれを静かに受け止めた。



『……怒らないであげてね。あの子はわたしの望みを聞いただけだから』



ぽつりとそう呟くと、彼は黙ってうなずいた。
踵を返して遠ざかっていく足音を聞きながら、わたしは静かに鳴いた。

今思うことを、全部この一声に込めて。

白い月明かりが彼の背中を照らし、わたしはその背中が見えなくなるまで彼を見送った。
彼は振り返らなかった。
ひどく頼りない背中だけをわたしに向けて、ゆっくりと歩き去った。

彼の足音の残響が聞こえなくなってから、わたしは静かに呟く。



『……さよう、なら』



ありがとう。
ごめんなさい。

もしも、身勝手に願っても良いなら。

いつかまた会いたい。


月を見上げて、にゃあ、と鳴いた。





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