いつだって、ほんの少し力を籠めれば身体はとても軽やかに駆けた
猫ゆえの身軽さで、どこまでも走っていけるような気がした

風を切り、大きな目が乾かないように何度もまばたきをしながら、過ぎゆく景色を忘れないように見ていた
いけない場所があるなんて思ったこともなかった

だから、うそだ
もう歩けないなんて、うそ、だ






もうない何時かの記憶






彼の言葉はわたしの全身を貫いて、わたしはそのあまりの衝撃に呆然自失の状態に陥った。
何度も何度も名前を呼んだ彼の声がどこか遠くから響いて、あの人に頼まれていたことを思い出したけれど、彼の名前を口にする気力はなかった。

食事をすることも、彼と会話を交わすことも、なにもかもが億劫だった。
時折、治療のために見知らぬ人間に身体を触られたけれど、それについて何かを考える余裕すらなかった。
治療には痛みが伴い、時にはそれが全身を痙攣させるほどのものだったけれど、抗おうとも思わなかった。

毎日見舞いに来る彼が何を言っても、それは心には届いてくれなくて。

ただ動かない下半身とだらりと床を擦る自慢だった尻尾を眺めて、わたしは日々を過ごしていた。






「……もう退院しても構わないそうだよ」



いつものように見舞いにやってきた彼が、わたしの背中を撫でながらそう告げた。

あれからどれだけの時間が過ぎたのか正確には分からなかったけれど、刈られていた腹部の毛がかなり生えているのを見れば、短い期間ではなかったのだろう。
彼の顔を見上げるのさえ億劫で、わたしは俯いたまま彼の言葉を聞いていた。



「傷口から雑菌も入っていないし、感染症も引き起こしていない。毛もかなり生えそろってきたし……なにより、これ以上できる治療はないみたいだ」
『……そう』
「とりあえず、俺の家においで。母さんたちにも話はしてあるんだ。小学生の妹がいてね、君に会うのを楽しみにしてるんだよ」
『………』
「そうだ、折角退院できたんだから、お祝いをしないとね。なにか食べたいものはあるかい? 俺もね、結構料理できるんだよ」



もしも、足が動いたら。
もしも、尾が振れたら。

小学生だという彼の妹と遊ぶことができただろう。
一緒に外に出かけて、はしゃぎまわることもできただろう。

それはきっと、とても楽しい生活だったに違いない。


そう、もしも、この足が動いたならば。



「キリ……?」
『……えぇ、そうね。とても……とても、楽しそう』



だらりと垂れさがったままの尾。
いくら力を込めても動かない足。
それをぼんやりと見ている、彼。

申し訳なさそうに、とても辛そうに、顔を歪めながら彼はわたしを見つめている。

背中を撫でる暖かい手が時折下半身に触れても、ある所から下は感触すらない。
何も、感じない。
暖かいはずなのに。
とても、とても、優しいぬくもりがそこにあるはずなのに。



『……あなたの家の中に入るのは、初めてね。とても、楽しみだわ』



繕うようにそう呟いて、弱々しく声を弾ませて見せれば、彼はひどく安堵したような表情を浮かべてわたしに頷いて見せた。
見かけよりも大きく感じられる手が、そっとわたしを抱き上げる。
力の全く入らない下肢を支えられながら、わたしは彼の手の中に納まった。



「じゃあ、行こうか。俺の家へ」





彼の妹だという少女は、彼とよく似た藍色の髪と瞳を持っていた。
そっと、壊れ物でも扱うかのようにわたしの背中を撫でて、小さな声でこんにちはと呟いた。

こんにちは、と心の中で返事を返し、その瞳を見つめながら一声鳴いて見せる。
その声を聴いて、酷く嬉しそうに破顔する少女が足に触れようとすると、彼が優しくそれを留めた。



「この子はね、怪我をしているんだ。だから、足には触っちゃいけないよ」
「あし、うごかないの?」
「……そう、もう動かないんだ。だからね、部屋の中で一緒に遊ぶんだよ」
「うん、わかった! ……でも……」
「どうした?」
「うごけないの、かわいそうだね」



ずきり、と心臓を締め付けられるような痛みが走り、わたしは身体を震わせた。
おそらくそれを感じ取ったのだろう彼が、小さく息をのんだような気がしたけれど、何か言葉をかける気にはなれなかった。

大嫌いだった「かわいそう」という言葉がとても似合う状況に、今のわたしは堕ちてしまっている。
最早、それを振り払うことも、否定することも、許されはしないのだ。
今のわたしは、どこまでも憐れまれるべき存在なのだから。



「ねぇ、おにいちゃん。このこのおなまえは?」
「あぁ、キリ、っていうだよ」
「かわいいなまえ! キリちゃんだね!」



ひどく暖かい会話が身に沁みるように痛い。

こんなことになる前に、こうして出会うことができていたら良かったのに。
贅沢な望みでしかないけれど、綺麗な姿でこの子と会って、一緒に遊びたかった。

動けない身体では毛繕いさえうまくいかず、特に背中はひどく汚れてしまっている。
彼は躊躇なくわたしに触れるけれども、きっと誰もがそんなに優しいわけではない。



『……どう、して』
「……え?」



どうして、こんなことになったのだろう。
どうして、わたしだったのだろう。
どうして、こんな目にあうんだろう。

彼女がわたしを選ばなければ、こんな事にはならなかったのに。


そんな醜い考えがわたしの中に満ちてゆき、その事実がわたしをひどく痛めつけた。



「おにいちゃん、キリちゃんとあそんでもいい?」
「病院から帰ってきたばっかりだから駄目。少し休ませてあげようね」
「えー、あそびたいー」
「そうしないと、キリが疲れちゃうだろう?」
「……はぁーい」



そんな会話を聞きながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。

もう何も。
彼の声も、響く鼓動も、軋む心臓の音も、何一つ聞きたくはなかった。

意図的に封じ込めた意識の中で、声が響く。



…………どうして……。



その問いの答えは、もうどこにもないというのに。


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