ふわふわと揺れる白い世界の中で、声が響いていた
あの時聞こえたはずの言葉が、ありありと蘇る
とても
とても、身勝手な願いだとは知っているの
悲しげな声でそう呟いて
あの時の誰かはわたしに告げた
白い朝はまだ暖かい
白い世界からゆっくりと浮かび上がって、朦朧とする意識が徐々にはっきりと鮮明になっていく。
それにつれて、全身に痛みが走り始めたけれど、その痛みはあの白い世界で味わったものより痛くなかった。
身体はまだ動かなかったけれど、誰かの暖かい手と名前を必死で呼ぶ声が聞こえていた。
「キリ、キリ」
その声に応えようとして、力の入らない身体に必死に力を込める。
痛みが倍増して襲いかかってきたけれど、どうにか身じろぎすることができた。
彼が息をのむ気配が触れている手を通して伝わってくる。
それを感じながら、どうにか瞼を押し上げた。
『……ひどい、顔を、しているのね』
「……キリ」
『どうして、泣いているの?』
彼の綺麗な顔を透明な雫が伝って落ちている。
それがいつかの日のように背中の辺りに落ち、白い毛皮を滑って落ちた。
それを目で追うと、とんでもないことに気づいてしまった。
『……みっともない姿になってるわね』
「はねられた衝撃で、内臓に傷がついてたんだよ。だから、手術して……」
『なら、もう大丈夫なのね』
「……う、んっ……」
『大丈夫なんだから、泣くことないじゃないの』
白い毛皮が綺麗に刈り取られお腹は空気に当たって冷えているけれど、全身に痛みが走って喋るのも辛いけれど。
でもそれでも、わたしは生きている。
生きて、彼の傍にいることができるのだ。
『真っ白い、世界にいたわ』
「……真っ白い、世界?」
『前にも一度、行ったことがあるの。いつだったかは、覚えていないけど』
それが初めて白い影と会った時。
ずっと記憶から消えていた言葉で、何度も何度も謝られた日。
そして今回は、その影がわたしの痛みを貰ってくれた。
まるで、罪滅ぼしのように。
『あなたの大切な人がいたわ』
「……×××が?」
『最初に会った時はね、謝られたの。何度も、何度も』
「どうして、彼女が……」
『あの人は、わたしにあなたの傍にいてほしいと願ったの。あの人がいなくなってあなたの心に空いてしまった穴を埋めてほしいって』
何度も何度も謝って、それでもと彼女は願った。
『約束を破ってしまったからと、言っていたわ。別れの言葉も言わずに、おいてきてしまったとも。あの人は……あなたの特技も、知っていた』
「……っ……」
涙がぼろぼろと零れ落ちる彼の頬を舐めてあげたいと思ったけれど、動かない身体ではできそうになかった。
だから、仕方なく言葉だけを紡ぎだす。
『あの人はとても心配していたの。あなたがあの人を探すだろうって予想してた。そのためにどんどん傷ついていくあなたが、心配でたまらなかった。だから……』
「君に、頼んだんだね」
『……ええ』
「……馬鹿、だなぁ。本当に。そんなこと、しなくたって……」
『何度も何度も謝られたわ。身勝手な願いだとは分かってるけれど、それでもあなたに頼むしかないのだと。きっとわたしを傷つけてしまうけれど、って』
「……俺は、君を傷つけたね」
『その傷はあの人が貰って行ってくれたわ』
「×××が……」
『あの人は、あそこで惑ってしまったの。だから、わたしが惑わないようにわたしを引きとめてくれた』
それさえも、罪滅ぼしなのかもしれないけれど。
彼は項垂れて、静かに涙を零し続ける。
それを見上げながら、わたしは大きく息をついた。
「……本当に、君には迷惑をかけたね」
『でも、助けてくれたのはあなたでしょう?』
「俺というより、×××だよ。俺に君の事を知らせてくれたんだ」
『……そうなの』
「俺はいつも自分の事しか見えてない……皆に心配をかけて、君を傷つけて、それに気づいていたのに止められなかった。俺は……本当に、馬鹿だ」
『……馬鹿でも、いいんじゃないの。人間って一人じゃ生きていけない生き物だもの』
「そういえば、君は猫だったね」
『ええ。猫はね、一人でも生きていけるの。ふらふらと流離って、なわばりを移しながら』
「それ、は……」
それは、とてもとても虚しい生き方なのだとは分かっているのだけれど。
時には寂しくて、虚しくて、やりきれない夜がある。
誰かに寄り添いたくて、寄り添ってもらいたくて、暖かさが欲しくてたまらない時もある。
それでも、猫という生き物は一所に留まることができないのだ。
「寂しくは、ないかい?」
『とても、寂しいわ』
「虚しくは、ないかい?」
『とても、虚しいわ』
「……悲しくは、ないかい?」
『とっても、悲しいわ』
「じゃあ、どうして何処かに留まろうとしないんだい?」
『……何処かに留まってしまうとね、誰かに情が移るでしょう? そうなってしまったら、離れるのが辛くなるから』
「なら、ずっと傍にいればいい。そうしたら……」
『同じ猫なら、それでもいいのだけれどね』
猫同士が寄り添い、子を成すこすことは間違ったことではない。
人間と共に生きるために生まれてきた猫が、人の傍で生きることも間違いではない。
けれども、わたしのような流離うべき猫が人の傍にいることは正しい事ではないのだ。
ずっと室内で暮らし、同じ場所に留まることが当たり前の猫と違って、わたしは室内で生き続ける事にも慣れていないのだから。
それに。
『例えば、わたしとあなたが共に生きたとして。ずっと傍にはいられないでしょう?』
「……そう、だけど」
『きっとわたしはあなたを置いて行く。それはどうしようもない事実よ。わたしは……わたしがいなくなった後であなたを苦しめてしまうのが、どうしても嫌なの』
「でも、君がこのままいなくなっても俺は苦しい。寂しいし、悲しいよ」
『……今の方が情は浅いでしょう?』
「そんなことないっ!」
勢いに任せたまま叫ぶ彼を見上げて、わたしは目を細めた。
いつもの癖で尾を振ろうとして、そういえば身体に力が入らないのだという事を思い出す。
ちらりと背中に視線を向ければ、ぐるぐる巻きの下半身が視界に映った。
その様子を見ていた彼が、何故だかひどく痛そうな顔をする。
「キリ」
『……なあに?』
「君に、言わなきゃいけないことがある」
『……?』
「君の内臓はとても傷ついていて、緊急手術をしたのは言ったよね。そのおかげで一命は取り留めたんだ。でも……」
彼がひどく言い淀む。
言いたくない、とその顔が言っていた。
『……でも、どうしたの?』
「はねられた衝撃で、君の背骨は折れてしまってた。本当はもう、助からないって言われたんだよ。でも頼み込んで、手術をしてもらって……奇跡だって、皆が言ってたよ。普通だったら助からないって」
『あの人のおかげかもしれないわね』
「そうかもしれない。でも、ね。命は助かったんだけど……折れた骨はかなり細かく砕けてしまってた」
『……砕け、て?』
「うん。だから……」
彼の言葉がひどく遠い。
痛む全身。全く動かせない身体。
少しも振ることのできない、長い尾。
震える彼の声が、無情に告げた。
「君はもう、歩けないんだ」
どくん、と心臓が撥ねたような感覚がした。