例えば、これが夢だったとして、
例えば、これが罰だったとして、
例えば、これが罪だったとして、
たとえば、これがしんじつだったとして
誰が悲しんで、誰が喜んで
誰が一番、辛いのだろうか
せめてきみのかげになりたい
影が揺れている。
真っ白い、どこか不安定な影が、真っ黒い、どこまでも深い闇の中、ゆらりゆらりと揺れていた。
それはまるで人であるかのような形をしていて、そして言うならば女に見えた。
「決して、傷つけたかったわけではないのよ」
あの時の声だと思うのに、響く言葉は全く違うもので。
わたしは奇妙な闇の中、尻尾をぱたりを振って見せた。
『……傷つける?』
「そう。彼はきっとあなたを傷つけたでしょう?」
『傷ついてなんか、いないわ』
「嘘。あなたの心は傷だらけだわ」
『それこそ、嘘よ』
「だって、そうじゃないなら、」
白い影がわたしを指さす。
その瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「どうして、そんなに傷だらけなの?」
白いはずの身体が、みっともない赤と黒に染まり、それがじわりじわりと広がっている。
鈍い痛みが走るだけでさほど苦しくもないのに、何故だかその色はどんどん広がっていった。
『……これ、は……』
「それが、あなたの傷。それが、彼の罪。そして、それが……わたしの過ち」
『違う、彼のせいなんかじゃない!』
「どうしてそう言えるの?」
『彼の言葉に、彼のぬくもりに、期待したのはわたしよ。わたしが勝手に期待して、勝手に失望しただけなのよ。だからっ……』
「ほら、また傷が深くなる」
言葉を言い切らぬうちに、全身に走る痛みが強くなる。
うめき声を喉の奥で押し殺し、自分の身体を見下ろせば、先ほどよりも色の濃くなった赤と黒がわたしの白さを犯していた。
『なんなの、これ……』
「言ったでしょう、それがあなたが傷ついた証だと」
『……それはっ、それは彼のせいなんかじゃない!』
恐怖を押し殺して絶叫のような声を上げ、白い影に向かって飛びかかる。
喧嘩は嫌いだけれど、他にどうすればいいのかが分からなかった。
思い切り爪をたててやろうと、力の限り噛みついてやろうと思っていたのに、目的とは逆にわたしの身体は白い影に包み込まれてしまった。
影はどこまでも白く、明るく、そして暖かい。
それがどこか彼に似ているような気がして、さらに全身に痛みが走った。
ずきり、ずきり。
心が悲鳴をあげる度、全身の傷もじりじりと疼く。
どうして、どうして。
彼のせいなんかじゃないと、そう声を上げたいのに。
この痛みが、この苦しみが。
それがわたしの嘘であることを証明してしまっている。
白い影の胸元に抱きしめられたまま、わたしは何度もうめき声を上げた。
思い通りにならない自分の身体と、心が、とてももどかしかった。
「痛いのね。その痛みをずっとずっと我慢していたのね。それとも……そんなものはないと、そんな痛みなど存在しないと目を逸らしていたの? 見ないふりをして、自分を誤魔化していたの?」
影の声が心に滑り込む。
聞きたくもない言葉が満ちていく。
だとしたら、と影が言った。
「それもまた、彼とわたしのせいね」
『……幸せ、だったのよ』
「幸せ?」
『彼は暖かくて、優しくて。その傍にいられることがとても、とても幸せで。だからこそ、彼が本当はわたしの事なんて見てないと知った時に悲しかった。痛かった。辛かった! でも、そんな形でも彼の傍にいられるなら、とも思った。でも……』
「良いのよ、耐えられるわけがないのだから」
『わたしは、ただの猫だから。おかしな特技を持った、白い猫。彼の傍に留まることはできても、彼の傍に寄り添い続ける事はできない。いつかわたしは彼をおいていくでしょう。その時、彼はきっと悲しむから。その悲しみを背負わせてしまうことが何よりも怖かったの』
「その思いもまた、あなた自身を傷つけたのね。可哀想に、こんなに傷だらけになって」
白い影はどこまでも優しくそう言ったけれど、かわいそう、という言葉にだけは頷けなかった。
きつく口を閉ざして、尾で影の手を振り払う。闇だけの地面に降り立ち、影から距離をとった。
躊躇うような気配が感じられたけれど、その事について謝る気は起きなかった。
『……わたしは、可哀想なんかじゃない。だって、彼と出会えたから。彼の傍に、少しでもいられたから』
例え彼が、わたしなんて見ていなかったのだとしても。
例え彼が、わたしを通してこの影を見ていたのだとしても。
それでも、あの時のぬくもりを忘れない。
『わたしは、彼に名前までもらったわ。こんな猫のみには過ぎた幸せよ。もう十分に満足なのよ』
「だからって、このまま彼の元を去るの?」
『去る?』
「そう。このまま行くと、もう二度と会えないわ」
暗い、昏い闇。
どこまでも続く闇の中で、影だけが白い。
ここにはきっと彼はいない。
わたし以外の誰もいないかもしれない。
『だって、わたしはもう……』
「彼が、待ってるわ」
影の言葉に重なるように、名前を呼ぶ声がした。
それは彼に貰った大切な名前で。
その名前を呼ぶ人は、名付けてくれた彼しかいない。
「ほら、精市も呼んでる」
『せい、いち?』
「そう、精市よ。今度呼んであげてね」
『……今度?』
「今から、あなたは還るのよ。間に合ってよかったわ。闇の中で惑うと、もう戻れないから」
『あなたは?』
「わたしはもう、ここで惑ってしまったから」
だから。
白い影が重ねてわたしに告げる。
その声が、少しだけ泣いているような気がした。
「目覚めたら、きっと精市がいるから。だから、名前を呼んで、安心させてあげてね」
わたしはもう、呼べないから。
影がそう言った瞬間、闇一色だった世界が急激に明るくなっていく。
それはまるで唐突に訪れた夜明けのようで。
そして、花が満ちて、咲き誇っていくかのような、そんな光景だった。
白い影はその明るさに紛れて、どんどん形を失っていく。
呆然とそれを見つめていると、ふいに全身が暖かいものに包み込まれた。
「傷は置いて行きなさい。わたしが貰ってあげるから」
白い光の強さと共に、痛みがどんどんひいていく。
その暖かさに身を任せたまま、わたしは静かに目を閉じた。