何もかもを忘れることは難しい
何もかもを捨てることはできない

なら、
何かですべてを塗りつぶしてしまえばいいと
何かですべてを埋め尽くしてしまえばいいと

そんなことを考えたわたしはきっと愚かなのだろう






それでも世界は終わらない






何もかもを忘れて、普通の猫として生きていこうと思った。
この身に抱えていたすべてを捨てて、空っぽの心に彼のくれた名前をだけを抱きしめて。
なわばりだった公園からも、逃れてしまおうと思っていたのだけれど。



『……やまないわねぇ』



さんさんと雨が降りしきり、屋根のないベンチを濡らしてしまっている。
わたしは濡れないように木々の隙間にしゃがみ込み、どんよりと暗い空を眺めていた。
少しずつ気温が下がっていく季節柄、濡れてしまえば風邪をひいてしまうだろう。

狭い空間で尾を振ると、雨の雫を弾き飛ばしてしまった。
ぴしゃりと背中にはねた水滴が、白い毛並を滑って地面に落ちていく。


今日、今のなわばりを捨て、新しいなわばりに移動するつもりだった。
新しいなわばりと言っても、まだ見つけてはいない。のらりくらりと旅をしながら、安心して暮らせる場所を見つけるつもりだったのに。
生憎の雨のせいで、出発する気力を削がれ、わたしはまだここに残っている。

本当は雨が降ろうが槍が降ろうが、さっさと出発してしまった方が良いのだろう。
未だにわたしの心には空虚な穴が虚ろに穿たれていて、いつそれが蓋を求めてもおかしくはない。


このなわばりを捨てるのと一緒に、わたしの特技も捨てていくつもりだった。
普通の猫が持たないものは捨ててしまって、どこにでもいる白猫になろうと思っていた。

そうするのがわたしにとっての一番で、そして彼にとっての一番なはずだ。



『……濡れるのは、嫌いだけれどね』



……それでもやっぱり、今日出て行った方が良いだろう。

重い腰を上げ、わたしは顔のすぐ下ではねる雨に辟易しながら一歩踏み出す。
木々の影を出た瞬間、全身に重い痛みが走り、小さく呻いた。
遮るもののない強い雨はわたしの身体に鞭をうち、じりじりと痛みを増していく。

瞬く間にみすぼらしくびしょ濡れになったわたしの毛並が、汚らしく土にまみれてしまった。
茶色い斑とびしょ濡れの白。どちらもとても情けのない色だった。


公園の入り口までようやくたどり着き、わたしは一度振り返る。
今まで暮らした、思い入れの深い公園。
座り心地と日当たりの良いベンチ。ほんの時々、子供が遊びに来る遊具。涼をとりたい時に横になれた木陰。
わたしは記憶がはっきりとあるその最初から、ずっとここで暮らしていた。



『……戻ることは、ないでしょうね』



心に一つ、名を抱いて。
わたしは一人で住処を離れる。
それはひどく虚しいことで。
少しだけ、寂しいと思った。

別れの言葉を小さく呟き、わたしは古巣に背を向けて歩き出す。
ざぁざぁと雨の降りしきる中、歩道の隅を進み、あてもなく進んでいく。


ふと、誰かに名前を呼ばれたような気がして、わたしは首を傾げた。
呼ばれた名前は、雨に遮られてよく聞こえなかったけれど、おそらくは……。


振り向こうとして立ち止まった瞬間だった。
唐突に、全身に衝撃が走った。

何が起きたのか全く理解のできない状態で、わたしが感じたのはただ一つ。
どんよりとした灰色の雲が、視界を埋め尽くしていた。



『……あ、ら……?』



身体が動かない。尻尾どころか、毛の一本も。
目だけがゆっくりと辺りを見回し、自分の状態を理解しようと足掻く。

わたしは固いコンクリートの上で、ぐったりと全身を伸ばして倒れている。
視界の隅に、自転車の影が見えたような気がした。きっと、あれに撥ねられたのだろう。
他人事のようにそんな事を思うわたしに、じわじわと痛みが襲いかかってきた。

視界が暗い。地面に押し付けられている右側が、真っ赤に染まっている。
どくんどくんと心臓が大きく鳴り響く度に、命が抜け落ちていくような感覚がした。

今までも怪我をしたことはあったけれど、ここまでひどい痛みを感じたことはなかった。
しかも、どんどん身体が冷たくなっていく。雨に濡れて、血を失って、わたしはぬくもりを失っていく。
自慢だった白い毛並は、今や茶と赤でぐちゃぐちゃだ。


もしかしたら、わたしはこのまま死ぬのかもしれない。
ぼろ雑巾のように汚れ、ぐちゃぐちゃになった状態で。
誰の傍にも寄り添えず、誰にも顧みられることのなかった、孤独な猫の末路にはふさわしいものなのかもしれなかった。



『……あぁ、でも。最後、に……』



最後に一目、彼に会いたかったな。
こんな事になるのなら、もっと名前を呼んでもらえばよかった。
折角つけてもらったのに、あの時一度だけだなんてもったいない。

素敵な名前。
わたしだけの名前。
わたしの、魂の名前。

わたしが死ぬ時までわたしに寄り添う、唯一の言葉。
それなのに、一度しか呼んでもらえないなんて。


せめて自分でその言葉を口ずさもうとするのに、もうわたしの身体はいう事をきいてくれなかった。
完全に伸びきったまま、わたしの意識はじわじわと闇に浸食されていく。

ひゅう、と小さく息を漏らすと、口の中に泥水が入り込んだ。
それを吐き出す気力さえなく、わたしはなすがまま水に沈んでいく。

目を開けているのがしんどくなって、わたしは目を閉じた。
最後に一度、尻尾を振ろうと力を込めて、けれどもそれもかなわなくて。

孤独な人生だった。
それがわたしが最後の最後に呟いた言葉になった。




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