彼のためと嘯きながら、結局わたしの心にあったのは自分の幸せだった

彼がわたしの傍にいた本当の理由なんて、知りたくなかった
知らなければ自分に嘘がつけた
何もかもを都合よく考えることができた

知ってしまえば、そんなごまかしはもうきかない
ただ真実だけがわたしの心にのしかかり、押しつぶしてしまうだけ






知ってしまったしんじつ






「ここまで上がってこられるかい? そこの木を登って」



彼が示したのは、窓のすぐそばに生える枝ぶりの立派な木。
わたしは返事をしないまま、助走をつけて木の枝に飛びついた。爪を駆使して這い上がり、バランスを取りながら枝から枝へと移っていく。
窓よりも少し高い所まで登り、呼吸を整えて彼の部屋の窓に飛び込んだ。
無事に床に着地し、床に足をつけてしまってから、自分の足の汚さを思い出した。
咄嗟にその場から動けなくなり、わたしは着地した時の体勢のまま硬直する。



「あぁ、少々汚れても構わないよ。さっきまでガーデニングしてたから、元々汚れてるしね」



そう言われても、汚してしまうのは申し訳なかった。なるべく新しく床を汚さないように体勢を変え、そっとお尻を床に降ろす。
彼はそんなわたしを見て、ひどく楽しそうに笑った。



「それで、今日はどうしたの? この前言ってた食事にでも来てくれたのかい?」
『……いいえ、残念だけど……』
「今日も魚の塩焼きだよ。母さんに言って、あらを煮てもらおうか。塩焼きは塩分が多すぎて、身体に悪いからね」
『だから、わたしは……』
「それとも、専用のフードの方が良いのかな。でも、猫を飼ってないからそういうのはないんだ」
『ねぇ、聞いて……』
「いつもは何を食べてるんだい? やっぱり魚とかなのかな。でも、そればっかりじゃあ……」
『ねぇってば!』



いくら言っても聞いてくれない彼に耐えられなくなって、柄にもなく大声を上げる。
彼は驚いたように言葉を切り、何とも言えない目でわたしを見降ろした。

その目に浮かぶのは……あえて言うならば、恐れ、だった。



『ねぇ、わたしはね、食事に来たんじゃないのよ。わたしは……』



ただ、謝りたくて。
わたしはあなたの探す人ではないから。
あなたの望む人ではないから。

だから、



『ごめんなさい』
「……何故、謝るの」
『わたしは……きっとあなたの探す人ではないの。あなたの望む人ではないの』



もしもそうであれたらと、思わないことはないけれど。
もしもそうだったらと、考えないわけではないけれど。



『わたしはただの白猫なの。人の言葉が解ってしまうだけの、ただの猫なの。あなたもわたしの言葉が解るのでしょう? それに……』



人の魂が見えるから。
だから、探そうと思ったのでしょう?

彼は答えない。
ただ、わたしが言葉を重ねるたびに顔色だけが白くなっていく。



『あなたと同じ、少し変わった特技を持ったただの猫。……わたしはあなたの事が嫌いではなかったわ。仲良くしたいとも思ってた』



けれどそれは、決して人と人の間にある愛情というものではない。
だってわたしは猫だから。猫に人の気持ちは理解できない。

わたしはずっと寂しくて、でもそれを認めたくなくて。
暖かくわたしを受け入れてくれた彼の優しさに、甘えてしまっていた。



『傍にいたいとも思っていたわ。けれど、けれどね。どんなにそう願ってもわたしは猫なの。ずっと傍にはいられない』



共にいたいと願っても、それは決して叶わない。
人に飼われるというのはそういうことだと、ただ虚しくて悲しいだけだと、わたしは知っていた。

それに。
最後の最後に悲しむのは、ほとんどの場合が人なのだ。



『……わたしは何も覚えてない。あなたと過ごした日々のことなんて知らない。あの公園にわたしがいるのは、あそこだけがわたしのなわばりだから。それに、あなたとあそこで出会ったから。ただ、それだけなの』



だからごめんなさいと謝れば、彼は何も言わずにわたしを見つめていた。
蒼みがかった瞳に、わたしの姿が写りこんでいる。
小さな、白猫。それがわたしだ。それ以上にも、それ以下にもなれない、憐れな存在。

彼に出会わなければ、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。



「……気づいていたの、俺が君の言葉を理解してるってこと」
『なんとなく、気づいていたわ。確信はなかったけれど』
「じゃあ俺は、今の言葉を聞こえないふりをすればよかったんだね」
『そうね』
「……ふふ、馬鹿だな、俺も」



泣いているみたいな、ひび割れた声。
それくらいのこと、彼が気づいていなかったはずがない。
彼はあえて、わたしの言葉に答えたのだろう。

きっと……彼ももう、疲れていたのだ。



『……×××という人の代わりになれなくて、ごめんなさい』
「君が謝ることじゃないよ。勝手に思い込んでいたのは俺で、君に彼女を映していたのも俺だ。むしろ、俺が謝るべきだよ。ごめんね、俺の都合で君の時間を無駄にしてしまって」



彼が視線を合わせるみたいに、床に腰を下ろした。
ぼんやりとした目が天井を見上げて、何度かまばたきを繰り返す。



「本当は分かってたんだよ。もしも君が彼女なら、何かしらの声を俺にかけてくれるだろうって。だから、君は彼女じゃないだろうって。でも……どうしても、諦めきれなかった。彼女はどこかにいるはずだって、そう思ってしまったんだ。
……俺はね、昔から死んでしまった人が見えたんだよ。街に出れば、沢山の半透明な人々が溢れてる。これはきっと誰にも見えるものなんだと思って、親に聞いてみたこともある。でも、そんな事を言った俺を、親は変なものを見るような目で見た。だから俺は、それ以来この特技について誰にも漏らしたことはない。否定されるのも、あんな目で見られるのも嫌だったから。
動物の言葉が分かったのは君が初めてだった。他の動物たちの声は、普通の鳴き声に聞こえるんだ。だから……君が彼女の生まれ変わりなんじゃないかって、思ったんだ」
『……わたしのこれも、生まれた時からの特技なの。誰にも言ったことはないわ。わたしだけの特技。人間の言葉が分かるだけだけれど』
「俺たちは、よく似てたんだね」
『そうね。……だからこそ、惹かれたのかもしれない』



結局わたしは、彼の望むものには程遠かったのだけれど。
結局彼は、わたしだけを見ることはなかったのだけれど。

すれ違うだけのわたしたちは、あまりにも不毛な存在だろう。



「……ねぇ、やっぱり俺の家においでよ」
『それは……』
「×××とは関係なく、俺は君が好きだよ。だから、俺と一緒に生きようよ」
『……でも、あなたはきっと彼女を忘れられないでしょう?』


忘れることができなければ、きっと彼はどんなに努力してもわたしと彼女を重ねてしまうだろう。
彼にその気がなく、無意識だったとしても、わたしはきっとそれに気づいてしまう。
その度に悲しくなって、寂しくなって。そんな思いをしながら暮らすのは、あまりにも辛すぎる。



『あなたの事は好きよ。とても、とても。人間相手にこんな感情を抱いたことはない。でも……わたしはあなたとは暮らせないわ』
「……どうしても、かい?」
『……ええ、あなたが彼女を覚えている限り』
「…………」
『でも、一つだけお願いがあるの』



最後の、お願い。
そう呟くと、彼はひどく狼狽えた表情を浮かべて見せた。
その顔があまりにも情けのないものに見えて、わたしは思わず笑みを浮かべてしまう。



『……あのね、わたしに名前を頂戴?』



あなたとわたしを繋ぐ、唯一の絆。
傍にいられないなら、共に生きれないなら、ただ彼の傍にいた証が欲しかった。



「な、まえ……?」
『そうよ。わたしには名前がないの。わたしの魂にも、身体にも、名前がつけられていないの。だから、わたしは名もない白猫』



彼は答えない。ただ呆然とわたしを見つめるだけ。
わたしは首を傾げて、静かに尻尾を振って見せる。少しだけ考えてから、にゃあと鳴いた。

急かすように、懇願するように、にゃあと鳴いてみせた。



『ねぇ、お願い』
「……じゃあ、名前、つけさせてもらうね」
『ええ』
「……キリ」



逡巡するように言葉をつまらせ、彼はどうにか声を絞り出す。
わたしは黙ってその言葉を聞いた。
これから共に生きていく、その言葉をじっと心に刻みつけていた。




「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -