彼が優しく微笑んでいた、その相手は誰?
彼が暖かく包み込んだ、その相手は誰?
彼がわたしを通して見ていた、その相手は……一体誰?
遠い場所で笑う少女と、寄り添う彼の姿が見えたような気がした
誰のための雨
細目を見送った薄暗い公園のベンチで、わたしは動けないままに空を見上げ続けていた。
彼は最愛の人を探しているのだという。
彼は遠くへ行ってしまった彼の人に、謝りたいことがあったのだという。
彼は人の魂を見ることができるのかもしれないという。
彼はその特技で彼の人を見つけようとしていたのだという。
『じゃあ……』
ずっと彼女を求めていたのに、ずっとずっと探していたのに。
彼が見つけたのは、大切な彼と彼女の場所に居座る、小さな白猫だったのだ。
それも人の言葉を理解し、猫にあるまじき振る舞いをする猫。
怒りを抱いただろうか。
それとも、希望の光を見たのだろうか。
もしかしたら、なんて考えて、わたしに近づいてきたのだろうか。
あの優しさも暖かさも、わたしではなくて……×××という人に向けていたものだったのだろうか。
もしもそうだとしたら。
『……彼に、謝らなきゃね』
それほどまでに気をかけてもらったけれども、わたしはきっと×××ではない。
だって、わたしは彼と過ごした記憶を少しも持っていないのだから。
それにわたしは猫だ。
幽霊ではなく、実体のある猫なのだ。
よろめくように立ち上がり、しなやかに地面に降り立つ。
もうそろそろ寝床へ帰って眠る時間帯だが、それよりもまずしなくてはならないことがあるだろう。
記憶にある彼との思い出を掘り返し、彼が去って行った方向を思い浮かべる。
一度だけ、彼の家の近くまで彼を追ったことがある。あの時はただの暇つぶしのつもりだったから、特に道なんて覚えようとしなかったけれど。
その記憶を辿るしか、彼の家にたどり着く術はない。
小さな体を精一杯動かし、夜闇の中を疾走する。
息は既に上がっていたけれど、少し休むという気にはなれなかった。
尾をぴんと張り、四肢を素早く動かして、わたしは風のように駆け抜ける。
記憶に残る道を辿り、角を曲がって、塀を伝って。
わたしは彼の家を目指す。
ぐるぐると彼との思い出が頭の中を過ぎった。
初めて目があった瞬間、戯れのように鳴いたわたしに向けて、彼が浮かべた微笑み。
いつも隣に、当たり前のように座っていた彼と、それを受け入れたわたし。
穏やかに言葉を発する彼と見上げ、沈んでいく太陽を見つめていた時間。
どんな時だって、彼の中には彼女がいたのだろう。
わたしの後ろに彼女を見て、きっとわたしが言い出すのを待っていた。
彼はきっと怖かったのだ。
聞いてしまった時、わたしが首を振ることが。
彼はきっと聞こえていた。
わたしが通じないと思って発していた言葉を。
人の魂が見えるくらいなのだから、わたしの言葉だって分かっただろう。
何も知らなかったのはわたしだけで。
そんなわたしの態度が、彼に希望と絶望を抱かせていた。
ずきり、と胸が引き攣れるように痛んで、無理矢理その痛みを押し殺した。
それでも隠し切れなかった悲しみが、じりじりとわたしの心を焦がす。
そうしてどれだけ走り続けたのだろう。
気が付けば、わたしは彼の家に辿りついていた。
綺麗な花が咲き誇る、綺麗な庭。
花々の香りが鼻腔をくすぐり、焦っていた気を少しだけ落ち着かせてくれる。
もう辺りは真っ暗になっていて、彼の家に灯る明かりが眩しいほどだった。
彼はもう家に帰っているだろうか。それとも、まだガッコウだろうか。
勢い余ってここまで走ってきたものの、どうやって彼に会えばいいのだろう。
あまりにも計画性のない自分に苛立ち、尻尾を乱暴に振り回した。
『……困ったわ』
大声で呼んでみようか。……けれど、まだ帰っていなかったら?
窓を覗いてみようか。……彼の家族に見つかったら?
彼の部屋さえ知らないから、明かりで判断することもできない。
ひゅうひゅうと、荒い息を繰り返しながら、わたしはぐるぐると思考を巡らせる。
細目が公園に来たのだから、ブカツは終わっているのだろうか。
それとも、細目はわざわざブカツを抜けてわたしの所へ来たのだろうか。
もしもそうならば、彼はまだ帰っていないかもしれない。
それ以上何をどう考えればいいのか分からなくなり、わたしが途方に暮れた時だった。
光の灯っていた二階のカーテンと窓が開き、眩しい光がわたしの目を射る。
眩しさに目を細めながら、それでも窓を見つめていると、そこに人影が立っているのが見えた。
「いらっしゃい。こんな所にいるなんて、珍しいね」
かけられた声はいつも通りのもので。
おそらく、その顔には柔らかい微笑みが浮かんでいるのだろうと想像できた。
わたしは静かに彼を見上げて、尻尾を振って見せる。
闇に包まれた空を背景に浮かび上がる彼の部屋と、光を背に立っている彼。彼の部屋から、わたしの姿はどのように見えているのだろう。
風に煽られた鬚がなびき、わたしは目を細める。
彼に対する返事のために、にゃあ、と小さく鳴いた。