優しく頭を撫でてくれた手を、
柔らかく微笑んでくれた顔を、
暖かく包み込んでくれた彼を、

わたしはきっと忘れられないだろう
ずっとずっと覚えていて、何度も何度も悲しむことになるだろう
どうしても耐えられなくなって、わたしは気を狂わせてしまうかもしれない

それでもよかった
わたしがそうして苦しむことで、彼がちゃんとした道に戻れるのならば、わたしはいくらでも苦しむ
いくらでも哀しみ、いくらでも嘆こう






凍てついた優しさ






あの日から、彼は公園に来なくなった。

わたしは相変わらずベンチに座って尻尾を振りながら空を見上げているけれど、その隣はいつでも空席だ。
そこに座ることを許した人間は彼だけだった。
そしてこれからも彼だけだろう。

少しずつ冷たくなり始めた風を浴びながら、わたしは一人空を仰ぐ。
季節がうつろうにつれて、ここに座っていることも難しくなるだろう。もう少し暖かい場所を探さなくてはならない。
もしたかしたら、寝床も移さなくてはならないかもしれない。それはつまり、なわばりの移動を意味する。ここを離れてしまえば、もう二度と彼には会えないだろう。
自分から会いに行く気はないが、彼がもしもを望んでここに来た時、わたしがいないとどんな思いを抱くだろうか。

もしも、を考えてしまうわたしは、きっと彼に未練を残している。
わたしの今までの記憶の中、暖かかったのは彼だけだったから。
受け入れることができたのも、受け入れてくれたのも、真実彼だけだったから。
けれども、もうそれも終わりだ。

だからこの気持ちを断ち切るために、なわばりを移すのも良いかもしれない。
もう二度と会えない場所へ、自分から進むことが正しい選択なのかもしれなかった。



『……なわばり、ね』



そういえば、どうしてわたしはここにいるのだろう。
気づいた時にはこの公園のベンチに座っていた。他の猫と争った覚えもないから、ここには最初から誰もいなかったのだろうか。

喧嘩はそんなに強くない。
なわばりを移すなら、争いを好まない猫のなわばりにひっそりと住まわせてもらうか、誰もいない場所を見つけるしかないだろう。

ふぅと猫らしくもなくため息をつき、のろのろと腰を上げた時だった。
公園の入り口に誰かが立っていた。
それは見覚えのある人影で、だからわたしは黙ってその人間が近づいてくるのを待った。



「……やはり、ここにいたか」



見えているのか、いないのか。それさえもわからない、細い目。
やけに重苦しい口調で話す細目を見上げれば、そいつは口元に笑みを浮かべて見せた。





「お前に話があってきた」



ベンチのすぐ傍まで近づき、けれどもベンチに座ろうとはしない細目は静かに言葉を放つ。
わたしはベンチの真ん中に座ったまま、じっと細目を見つめていた。

この人間の言葉を聞く義理はわたしにはない。
けれども、この人間が語るのは彼についてだろう。
その予想をした上で言葉を待つわたしは、やっぱり彼の事を諦めきれていないのだ。



「お前が俺の言葉をどこまで理解しているのかは俺には分からない。そして俺は猫相手に話をした経験がない。だから、どこまで伝えられるかは分からないが……分かる範囲で聞いてくれ」



一拍。
まるで返事を待つかのように言葉を区切った細目に、わたしは返事をしなかった。
無言のまま、静かに言葉の続きを待つ。



「精市は……お前といつもここで過ごしていた人間の事だが……この公園の傍で大切な人を失った」



細目の声は決して大きくはないのに、何故だかよく耳に届く。
わたしの心臓は早鐘のように、どくどくと音を立てていて。
とてもとても、痛かった。



「一年ほど、前の話だ」
「精市と彼女……×××は、学校からの帰り道にこの公園で言葉を交わすことを日課としていたらしい。この公園は精市と×××の家のちょうど中間にあり、いつもここで別れていたようだ」
「その日もいつもと同じようにここで言葉を交わし、そして彼らはそれぞれの道へと帰路に着いた。……いつものように、当たり前のように、また明日という約束を交わして」
「けれども、その約束は果たされなかった」
「その日の帰り道、×××は死んだ。車に撥ねられ、即死の事故だった」
「精市は嘆き悲しみ、自分を責め、哀れなほどに自分を追い込んだ。一時はもう駄目かもしれないと、誰もが最悪の事態を覚悟した時もあった」
「だが、精市は見事に哀しみを乗り越え、ゆっくりと×××のいない生活を歩み始めた」
「もう大丈夫だと、誰もが安堵した。しかし。哀しみを乗り越え、吹っ切れたと思っていた精市が唐突にこの公園に通い始めた」
「誰もが、止めたさ」
「ここには悲しい思い出しかない。ここに来ても、辛い思いをするだけなのだから」
「誰が何と言っても、何度諭しても、精市はここに来るのを止めなかった」
「とうとう悲しみのあまり狂ってしまったかと、誰もが言った。けれども、その奇行以外精市は正常そのもので、だから俺は尋ねてみた」
「何故この公園に通うのかと。何故、ずっと彼女の名前を呼び続けるのかと」



いつの間にか、細目の瞳が開き、黒々とした深い眼差しがわたしを捉えていた。
わたしも黙ってその目を見返し、一度だけ尾を振ってみせる。



「精市は俺に、×××を探している、と答えを返した。普通ならば、やはり精市は狂ってしまったのだと思うだろう」
「だが、俺は知っている。精市は悲しみで我を失うほどに弱くはない」
「そしてもう一つ。こちらはただの俺の予想でしかないが……俺は、精市はおそらく人の魂、いわゆる幽霊のようなものが見えるのだと思う」



あぁ、と思わずため息のような声が漏れた。
細目はそんなわたしをじっとりと見つめたが、そんなものは最早気にならない。

彼の言っていた、俺の特技、とはこのことだったのだろう。
わたしと同じ、誰も知らない彼の特技。

わたしが人の言葉を解せるように、彼は人の魂を見ることができた。
だから、ずっと探していたのだ。

自分を責め、彼女を失ってしまったことを嘆き、そのうえで彼は答えを出したのだろう。
自分の特技を利用していなくなってしまった彼女を探し出し……おそらくは、謝ろうとしたのだろう。
そのために何度も公園に足を運んだのだ。最後に彼女を見た場所で、彼女を見つけようとして。



「精市はずっと彼女を探していた。誰に何を言われようと、やめようとはしなかった。誰にも止められない意志の強さが、精市にはあった」
「そして……×××ではなく、お前を見つけたのだろう」



そして、彼は何を思ったのだろう。
どれだけ探しても見つからない最愛の人。
そして、彼女との思い出の場所に住み着いた白い猫。

その白い猫は、明らかに人の言葉を理解していた。

果たして、彼は何を考えただろうか。



「後はお前の方がよく知っているだろう。俺たちは最近になって精市の奇行が少し落ちついたと思っていただけだからな」



細目はその言葉を言い切ると、おそるおそるという風にわたしに近づき、そっと頭を撫でた。
その暖かさは彼とよく似ていたけれども、彼ほどに優しくはなかった。

にゃあ、と穏やかに鳴いて見せれば、細目は一度だけ頷いて踵を返す。
その背中を見送った後で、わたしは小さく呟いた。



『……でも、わたしは……』




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