眺めるでもなく流れていく景色を見つめ、どれだけの時間がたったか分からない
時を数えることはわたしにはできないことだったから
朝日が昇れば朝が来る
日が落ちれば夜になる
朝になれば起きて、夜になれば眠ればいい
その繰り返しだけがわたしの毎日だった

けれど
彼は立ち止まった
わたしを見て、微笑んだ






なかまはずれのかなしみ






ブカツが終わると、彼らはがやがやと騒ぎながら荷物をまとめ、何人かずつで話をしながらブシツを出て行った。
彼と細目と黒髪はそれを見送りながら、時折難しげな言葉を交わしていた。



「ごめんよ、もう少しで終わるから」
『大丈夫よ、帰ってももう眠るだけだから』



彼はブシというものを書くらしい。そのために三人で残り、いろいろと話し合っているのだ。

今日一日、人間という生き物を観察してみて、人間は忙しい生き物なのだと思った。
やらなくてはいけないこと、戻らなくてはならない場所、いなくてはならない空間。それが積み重なり、彼らの一日を形作っている。

猫であるわたしには考えられない生活だ。
わたしは朝起きてその日一日のご飯を確保することと夜眠る場所の事をちゃんと考えれば、あとは何をしていてもいいのに。
ずぅっと同じところに拘束されるなんて、息苦しくてかなわない。



「精市、その猫はどうするんだ」
「帰りに公園まで送っていくよ。寝床がどこなのかは知らないけど、俺とはいつもそこで会ってるから」
「公園?」
「うん。……ベンチがある、あの公園」



一瞬だけ、糸目が何とも言えない表情を浮かべ、ため息をついた。
その音に彼が肩をすくめ、視線をわたしに向けた。
彼の瞳がひどく痛々しい色をしているような気がして、わたしは無性に悲しくなった。

どうして、そんな目でわたしを見るの。
ずっと前、誰もがわたしをその目で見ていた。
可哀想に、と呟いて。
あの時は意味が分からなかったその言葉も、今では理解できる。

だから、その瞳のその色が、わたしは大嫌いだった。



「幸村……まさか、その公園は……」
「まだ通っていたのか。いい加減にしておけとあれほど言っただろう」
「俺がどこで何をしようと俺の勝手だって、俺も言っただろう?」



彼の静かな声がはっきりとそう告げると、糸目と黒髪は困ったように目を見合わせる。
その様子を見てから、彼は静かにわたしに呼びかけた。



「×××」



それは確かにわたしへの呼びかけだったのだろうけれど、その音はわたしには届かなかった。
彼が何を言ったのかが理解できない。
まるで人の言葉が分からなくなってしまったかのように。

一瞬だけ自分の特技を疑ったけれど、黒髪が大きな声を上げたおかげでその疑いは消えた。



「幸村、いい加減にしろ!その名前は……!」
「うるさいよ、真田」
「あぁ、うるさいな。鼓膜が破れるのではないかと心配になる。だから少し黙れ、弦一郎。お前と精市では埒が明かない」
「俺と蓮二でも埒は明かないと思うよ」



静かすぎる、平坦な声。
それが彼のものとは思えなくて、背中にひやりとしたものが走った。



『……一体、なあに?』
「君は気にしなくていいんだよ。これは俺の愚かな思い込みと浅ましい心残りと虚しい現実逃避なんだから」
「そこまでの自覚がありながら何故やめない。何故そこまであの場所に固執する。そこまでする意味が、あの場所にあるのか」
「……良いんだ、別に。忘れてしまっても、消えてしまっても。俺がちゃんと覚えてる」
「精市!」
『……心配、してるわよ』
「蓮二、君もうるさいよ」



彼が立ち上がり、傍らにまとめていた荷物を肩にかけた。
そのままわたしの元へと歩き、すぐ目の前でしゃがみ込む。
手を差し出され、先ほどまでの雰囲気と彼の背後で青い顔をしている糸目と黒髪に戸惑い、呆然とその手を見つめた。



「おいで。帰ろう、送っていくよ」



誘うように出された手を見つめ、その手が震えていることに気づいた。
彼を見上げてその瞳を覗き込んだけれど、そこには何の感情も浮かんではいなかった。
しいて言うなら、蓋をしてしまった井戸の底。光が届かないから、暗い底で水がたゆたっているだけだ。



『……いいの?』
「帰ろう」



あなたとわたしは、別の所に帰るのよ。
その言葉を言いたかったけれど、言ってしまったら何かが崩れてしまいそうで。
無言で彼の手に前足をかける。彼はそのままわたしを抱え上げ、胸に抱いてくれた。

そんな彼をじっと見ている糸目と黒髪に向けて、にゃあと一声鳴いてみる。
わたしなりの別れの言葉だったのだけれど、黒髪は苛立たしげに顔を歪めてそっぽを向き、糸目は何の反応もせずに彼の背中を見つめていた。

彼が背中を向けたまま、呟くようにじゃあねと言った。

糸目と黒髪は返事をしなかった。
彼は振り返ることをせずに、ブシツの扉に手をかける。

ひどく重苦しい雰囲気がその場を包み込んでいて、なんとなくそれはわたしのせいなのだと気づいていた。
わたしと彼が一緒にいて、あの公園で会うから、彼の仲間は彼の心配をしているのだ。
それがどういう意味を持つのかまでは分からないけれど。

×××。
彼が呟いた言葉が頭の中を過ぎる。
意味の分からない人間の言葉。理解できない唯一の言葉。
他の言葉は理解できるのに、なぜかその言葉だけが指の間をすり抜けるみたいにして消えてしまう。



『ねぇ』



暖かい彼の手の中から声を上げる。
彼は返事をしようとせず、そのまま扉を押し開いた。
流れ込んでくる外の空気。ひやりと、その冷たさが背中を撫でる。



『わたしには分からないのよ。ごめんなさい。でも、本当に、本当にちっとも分からないの』



彼が小さく笑ったような気がしたけれど、それはもしかしたら気のせいだったのかもしれない。
だって声は聞こえなかったし、彼の手は震えたままだったから。


乾いた音を立てて扉が閉まり、彼はゆっくりと歩き出す。

彼の胸元に顔をうずめていると、不意に背中に水滴が落ちてきた。
もしかしたら、雨が降っているのかもしれない。昼間はとても晴れていたけれど。

ぽつり、ぽつりと、水滴が背中をうつ。

彼の服に顔をうずめ、じっと目を閉じていた。
不規則に背中をうつ水滴を感じながら、静かに尻尾を振った。




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