寂しさなんて忘れてしまった
悲しみなんて失くしてしまった

どちらももう、二度と戻らない






そして一人の夜が明ける





柳生に引きずられて部屋を出た瞬間、身体がふわりと浮きあがって宙を舞った。ぐるりと世界が一回転して、気づけば多大な労力を費やして登った階段の一番下まで戻って来ていた。
茫然としながら目の前に広がる景色を眺め、まだ身体に残っている感覚を確かめる。ふわふわと今も浮いているような気分だった。


「怪我はないですか?力を使って下まで降りたのですが、人を連れて降りるのは初めてでして……」
「あ…大丈夫、平気」


嘘じゃない。どこにも痛みはないし、あれだけ登った階段を一瞬で降りてこられたのだから感謝したいくらいだ。
けれど、今はそれどころじゃない。気になる事が多すぎる。

申し訳なさそうな柳生に向きなおり質問をぶつけようとすると、ふいにその手が上がった。
思わずその手に視線を奪われ、その時初めてその爪が鋭利な刃物のような鋭さを伴っていることに気づく。


「ここは暗いです。それに冷えますから、部屋に戻りましょう。柳君も用事を終えているはずですから」
「……分かった」


一拍の間を開けて頷くと、柳生はほっとしたような顔で微笑む。そのまま背を向けて歩きはじめる彼の背を追いかけながら、一度だけ振り返った。

────・・・仁王。

小さく呟いた声は風に融けて、誰にも届かなかった。





「で、仁王に拒絶された精市を守るために飛び込んだのか、お前は」
「はい。言いつけ通り幸村君はお守りしっ……!」
「それで仁王との間に軋轢を作ってどうする」


めき、と嫌な音を響かせながら、柳生の顔が床に沈む。茶色い頭の上に蓮二の長い足が乗って、ぐりぐりと踏みつけていた。
その姿をぼんやりと見つめながら、蓮二が話を聞きながら入れてくれた紅茶を啜る。暖かいそれが身体を内側から癒してくれて、やっと一息つけたような気がした。
出会ってまだ一日にも満たない二人だが、彼らの上下関係は明白だ。どうやら、柳生は好んでそうしているような節もあるが。


「だがまぁ、その場合は仕方がないだろうな。比呂士、お前にしては良い判断だった」
「ふぉふでふは……はほ、ははひふん、あひをほへてふははい」
「足をどけろだと?どの口がどんな事を言うんだ?この口か、この口が俺に向かってそんな言葉を吐くのか?」
「ふひゅう……」
「あの……柳生が死んじゃうんじゃないのかな」


吸血鬼が人に頭を踏まれて死ぬものなのかは知らないけど。
そっと蓮二に呟くと、彼はその端正な顔に似合わぬ嘲笑めいた表情を浮かべて足の力を強める。


「吸血鬼の生命力は半端なものではない。些細な傷なら即座に修復されるし、殺す方法なんて片手の指で足りるほどしかないぞ。首を落とす、心臓に杭を打つ、太陽の下に転がす。聖水や葫が聞くという伝説もあるが、それは嘘っぱちだ」
「過激な殺し方ばかりだね……」
「ああ。だから、俺がこうして踏んだって、こいつは痛くも痒くもないんだ」
「いはいでふ……」
「ほら、痛くないと言っているだろう?」
「……そうだね」


思いっきり痛いって聞こえたけど、何を言っても無駄なような気がする。
いつの間にか飲み干してしまったカップをテーブルに置き、ため息を漏らしながら踏まれる柳生と踏みつける蓮二を観察した。


「ねぇ、蓮二」
「なんだ?」
「さっき、何回か柳生に助けてもらったんだけど……色々と変な動きがあったんだ。それってやっぱり吸血鬼の力なの?」
「変な動き?」
「空気を足場にしたり、宙に浮いたり……」
「なるほど。確かにそれは吸血鬼の力だ。空間に己の力を放出することでそこに見えない質量を作りだす能力と空をかける能力。どちらも吸血鬼特有のものだな」
「やっぱりそうなんだ。便利だね、吸血鬼って」
「俺もそう思う。時折、無性にこいつがうらやましい」


そう言いながら、蓮二はようやく柳生を開放する。床から起き上がった柳生はほっとしたような顔で眼鏡を押し上げ、服についた埃を払った。


「で、これからどうするんだ。仁王が落ち着くまで近づけないだろう」
「そうですね……しばらくすれば冷静になるとは思うのですが」
「それまで待つしかないか」
「ええ、おそらく。仁王君も馬鹿ではありませんから、自分で立ち直る筈です」
「問題はそれがいつになるか、だな」
「はい。もう一度、こっそり様子を見てきます。柳君は幸村君をお願いします」
「言われなくとも分かっている。お前はとっとと出ていけ。もう一度蹴り飛ばされたいか」
「…………正直に言えば少し……」
「顔面を歪ませるぞ。今すぐ目の前から失せろ」


犬か猫でも追い払うような手つきで蓮二が手を振ると、柳生は大人しくそれに従って部屋を出ていく。
妙な沈黙が残った室内に俺と蓮二が取り残された。


「で、だが」
「うん」
「今から俺の用事を済ませようと思う」
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「よろしく頼む」
「こっちこそ。で、何をするの?」
「掃除、だ」


言いきった蓮二の顔がひどく憔悴して見えた様な気がした。






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