月が、美しかった
空に映る月も、湖に映る月も

そして多分、俺の瞳に映る月だって





夜の旋律





綺麗だと思った。
その色は空に浮かぶ月のようで。その月の色をしたものになら手が届くような、そんな気がした。
ぼんやりとした意識の中で、その鮮烈な色が俺を捕らえて離さない。
その月の髪の下で、黄金の瞳が瞬いていた。


「だ……れ…………?」


掠れた声を絞り出し、水につかった身体をほんの少しだけ動かす。本当は立ち上がろうとしたのだけど、何日も食を絶っていた身体はもう力を残していなかった。
唯一自由に動かせる瞳で、その黄金と見つめ合った。
人と目を合わせれば相手の考えていることが大体分かるのだけれど、この目は俺に何も教えてくれない。


そうやって見つめ合って、どれだけの時間が過ぎたのだろう。

ふいに赤い歪みが走った。


「みつけた」


低くて重い、綺麗な声。
その月のような銀に似つかわしい、美しい声。


「みつけた。俺の……」


きらりと月の髪が輝いて、黒い影が近付いてくる。
危機感は少しも感じないのだけれども、それでも影に捕らわれてはいけないとどこかから声が聞こえる。
どちらにせよ身体は少しも動いてくれなくて、それにもう俺には全てがどうでも良くなっていた。


「君は、誰?」


手を伸ばせば触れられる。そんな距離まで近づいてきた影に、そっと言葉を投げかける。
影の赤い亀裂がにぃと笑みの形に歪み、そして言葉が落ちてきた。


「人に名を尋ねるなら、自分から名乗りんしゃい」


聞きなれない発音と語尾がほんの少し耳ざわりで、けれど意味はきちんと通じた。


「名前……?」


俺の名前は何だっただろう?
もう長く、誰にも呼ばれていないその名は───…。

最後にその名を呼ばれた時、俺は泣いていたはずだ。
何よりも優しく名を呼んでくれていたあの声は、もう二度と響くことはない。


「幸村、だ」
「幸村か。俺はニオウじゃ」
「に、お……?」
「おぉ。そんでの、俺は───」


ゆっくりと躊躇うように、静かに言葉が告げられる。


「吸血鬼、なんじゃ」
「吸血鬼…?」
「そうじゃ。吸血鬼が何か分かるか?」
「血を吸って生きる……」


はるか昔に絶滅したと伝えられている闇の生き物。
太陽の光を嫌い、その力は人よりも遙かに強大。
そして吸血鬼は、血を食物としている。

思った事をぽつりと口に出していくと、彼は少しだけ困惑したように眉をしかめた。
その動作がやけに人間らしくて、おかしな親近感を抱く。


「大雑把にいえばそんなもんじゃな。色々と抜けとる部分や間違っとる所もあるんじゃが……まぁ、よかろ。にしても、お前さんの反応はつまらんの。もっと驚いたりとか、悲鳴を上げたりとかはないんか?」
「どうでも良いんだ……」


いるはずのない生物が目の前にいるという事実も相手が血を吸う生物だという事も、何もかもがどうでも良い。


倒れているというのに眩暈を感じ、反射的に目を閉じる。
いつでも闇に浮かぶのは暖かかったあの人と俺を拒絶するたくさんの人々、そして意地汚く笑う醜い男の姿。
次々に浮かんでは消え、そしてまた浮かび上がる。
いつまで経っても、どこまで来ても、消えない。
消えて、くれない。


「なんじゃ、お前さん死にたいんか」
「死にたいんだと思う、よ」
「人は変な生き物じゃな。生きられるのに命を捨てようとする。まぁ、今の俺にとっては都合がええんじゃけど」
「……?」
「俺達吸血鬼にはな、運命の相手っていう人間が一人おる。吸血鬼一人につき、人が一人。その血は他の誰のものよりも美味くて、最も力になる。ここまで分かるか?」


右から左へと抜けていく程度の認識だけれども、理解できないことはなかった。
肯定の意で小さく頷くと、仁王がくつくつと声を上げて笑った。


「上出来じゃ。での、俺の相手はどうやらお前さんらしい」
「……俺…?」
「そうじゃ」


思わず瞼を押し上げると、満足そうに頷く仁王が視界に飛び込んできた。
仁王が動くたびに髪が光を反射して輝き、それがやっぱり綺麗だなんて、全く関係のない事を考える。


「腹が減って、久しぶりにこんな所まで降りてきたら美味そうな匂いがしての。それを辿ってみたら、お前さんに辿り着いたってわけじゃ。驚くほど確率の低い偶然じゃな」


へぇ、と小さく呟くと、仁王は不思議そうな顔をした。
きっと俺がまるで他人事のようにぼんやりしているからだろう。
そんな顔をされたってそれ以上の関心は持てなくて、どこか遠くに魂を飛ばしたような状態で彼の瞳を見つめた。


「俺を、喰うの?」
「血を貰うんじゃ。んで、連れて帰る」
「連れて……?」
「そうじゃ」
「血を吸われたら、死ぬ?」
「死なん。普通噛まれたら吸血鬼の仲間入りじゃが、お前さんはそうもならん。運命の相手は吸血鬼にはなれんけんの」
「そっか……じゃあ、はい」


血を吸う、という動作で想像できるのは首に噛みつく姿だ。
だからこそ、俺はうまく動かない身体を動かして首をのけぞらせ、少しでも血を吸いやすいように喉を晒した。
仁王は一瞬躊躇ったように身じろいだけれど、すぐに俺の傍に膝をついた。
ぱしゃりと水の跳ねる音が響いて、晒した喉に僅かな痛みが走って。

その瞬間、首に激しい熱と全身が壊れてしまいそうなほどの激痛が走った。

痛みで頭の中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、ぐるぐると世界が何度も回転し、すぐに全てが俺の中から消えていく。
何度も何度も名前を呼ばれたような気がしたけれど、もう目を開く力は残っていなかった。





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