大人になる、ということはこんなにも虚しい事なのだと数年前の自分に教えてやりたいと思うようになったのはつい最近だ。大学に通ってバイトをしてアパートに帰って大学に通って────ただただ規則的に繰り返される毎日は終わりの端を見せもしない。
大学もバイトもうまくいっていないわけではなかった。勉学には真面目に取り組んでいるし、そのおかげで教授たちからもよく目をかけてもらっている。バイト先でもなかなかの好印象を抱かれているようで、自分で言うのもなんだが信頼は厚いはずだ。
けれど、そのどちらにも昔のように気軽に騒げる仲間がいないという事実はいつも俺に圧し掛かっていて、それがひどく冷たい孤独感を俺に植えつける。今頃、あいつらは一体何をしているだろうか。今も馬鹿騒ぎを繰り返しながら楽しくやっているのだろうか。それに……彼は今────。
考えが深みにはまってしまうと、どんどん思考が別の所に飛んでいく。それを無理矢理連れ戻して、ため息をついた。やっとバイトが終わって帰ることができるのだ。早く休みたい。そう思いながら重たい扉を押し開いて一歩外に出ると、いつものように深い群青色をした闇が迎えてくれた。月の明かりと人工灯の光を頼りにアパートへの帰路を辿る。
バイト先からアパートへの最後の曲がり角を曲がった瞬間、予想だにしない人影が目に入った。思わず足を止めて、こちらに気づかないまま道路に端に座り込んでいる彼の姿をまじまじと見つめる。
しばらく……二年ほど会ってはいなかったけれど、彼は少しも変わっていなかった。ふわりとかすかにウェーブする濃青の髪もその陶磁器のように綺麗な顔も。あの頃はまだ幼さが残っていたけれどそれはもう消えていて、一人前の大人の風格を漂わせていた。


「……幸村?」
「あ、真田、遅いぞ。俺をどれだけ待たせるつもりだ?」
「何か約束をしていただろうか?」
「はぁ?してるわけないだろ。連絡なんて全然取ってないのに」


よっこらせと爺臭い掛け声と共に立ち上がった彼の傍まで近づくと、先ほどまで彼が座り込んでいた所に白いビニール袋が置いてあった。ぴょこんと突き出しているのはおそらく葱。覗き込むようにして中を確認すると、食材が大量に詰め込まれていた。何故彼がここにいるのか、どうして大量の食材をごったに詰め込んだ袋を持っているのか。その理由が少しも分からなくて、けれどとりあえず部屋に戻ろうと思ってそのビニール袋を持ちあげた。彼はきっと持たないだろう。持ったとしても子供のように振り回したりするので、最初から持たせない方が賢明だということを高校生時代に学んでいる。


「なんだよ、もうちょっと驚けばいいのに」
「十分驚いた。どうしてこんな所に居るのだ?何故俺の部屋を知っている?」
「連絡入れようと思ったんだけど、俺、お前がどこに進学したのか忘れちゃったんだよね。だから蓮二に聞いた。そしたら大学の名前と一緒に住所も教えてくれたからこっちに来たわけ。そしたらなかなか帰ってこないし、部屋の番号までは聞かなかったから入るには入れないし、ずっと座って待ってたんだ」
「それは……悪かったな」
「本当だよ、全く。住民の方々には変な目で見られるし、数回鬱陶しいチンピラにナンパされるし。全部真田のせいだからな」


彼は強引だ。理論も思考もあまりにも自分本位で、周りを振り回すのが三度の飯より大好きだと昔豪語していたのをまだ覚えている。衝撃的な発言だったけれど、それでも彼から離れようと思うことはなかった。能動的に動くことが少ない俺には、彼くらいの思考が丁度いい。
部屋の鍵を開けると、彼は家主よりも先に部屋に飛び込んで行った。それでも、マナーは守る気があるのか大声で叫ぶということはしない。それにほっとしながら、彼の後を着いていくようにしてやっと自室の床を踏んだ。


「で、何をしに来たのだ?」
「暇だったから来ただけ。丁度論文も終わったし、授業数も余裕があるから一泊二日のつもりで」
「俺の都合は考えないのか、お前は」
「あれ?くそ真面目な真田は論文なんて期日の数日前に出すだろ?」
「……」


図星。彼の言う通り、期日には余裕を持って論文を提出するのがモットーだ。それを認めてしまうのは負けを認めるように思えて、無言でため息をつく。数日前に掃除をしたおかげで唐突な来訪にも対応できるものの、これからはこまめに整理整頓をしなければならないだろう。彼はきっと暇ができれば訪ねてくるだろうから。
手に持ったままだった荷物を床に下ろすと、彼は何かを思い出したように顔を輝かせた。


「真田、お腹空いた!」
「……これで何か作ればいいのか?」
「そのために買ってきたんだ。真田、料理うまいだろ」
「上手いという程ではないが……お前よりはましだな」


彼の料理は料理とは言わない。あるものを鍋に放り込んで煮るという作業だ。繊細な花を育むガーデニングは得意のくせに、家事一般になると彼は俺よりも劣る。


「少し待っていろ。好きにして構わん」
「じゃあ、本を読ませてもらうね」


言うが早いかころりと床に寝転んで本を読みあさり始めた彼を一瞥し、買ってきてくれた材料と残っているもので何ができるかと思案する。一体、何を考えて買ってきたのかと思うほど雑多な食材を眺めて、もう一度深くため息をついた。






「やっぱり真田は料理がうまいな。俺、ここにホームステイしようか」
「国内でしてどうする。するならば、外国でしろ」
「冷たいなー。せっかく来てやったのに」


出来上がったのは和を彷彿とされるメニューだった。いつもの食事よりかは豪華なそれをつつきながら、美味しそうにご飯を頬張る彼を見つめる。一度、買い物をする時の心得を教えておくべきか。キャベツとレタスと青菜を一緒に買ってどうする。豚肉と鶏肉と牛肉、果てはジンギスカンまで買ってどうする。そう言ってやりたいが、言っても無駄なので止めた。


「にしても、真田らしい部屋だね。余計なものが何一つない。しかも、綺麗」
「無駄なものは必要なかろう。それに、数日前時間があったので掃除をしたばかりだ。いつもはもう少し荒れている」
「俺の部屋なんか来たら、絶対卒倒するよ。もうごっちゃごちゃだもん」
「部屋の乱れは気の乱れ。気の乱れは────」
「精神の乱れ、だろ?その言葉、高校時代に何十回聞かされたか」
「ありがたい祖父の教えだ。心して聞け」
「やっぱり真田は変わらないな。真面目で実直で融通が利かない」


ほんの少し懐かしそうに呟いて、彼は牛肉と野菜のごった煮を口に放り込む。昔よりも食が太くなったようで、この調子ならば作りすぎたおかずも綺麗に無くなりそうだった。


「最近、他の奴らと連絡取った?」
「いや……卒業して初めて会ったのが幸村だ。蓮二とも連絡を取っておらん」
「だろうね。蓮二もそんなこと言ってた。皆、結構元気にやってたよ。赤也以外はテニスやめちゃってたけど」
「……そうか」


虚しい、と思った。やはり大人になるということは虚しい事なのだ。持っていたものを一つ一つ捨てて、新しい地に進まなくてはならない。友好関係も少しずつ薄れて、いつかは蜘蛛の糸のように細い細い関係になってしまうのだろう。


「でね、蓮二が番号知ってたから電話かけてみたんだけど……全然変わって無くて、逆に面白かった。本当に、皆、少しも変わってないよ」
「幸村、お前も変わっていないぞ」
「ふふ……まぁ、数年だしね。そんなに急に変わるものでもないだろ」
「だが────いつかは変わってしまう。それを虚しいと思うのは俺だけか?」
「うーん……でも、人間ってそんなものだろ。変わらなきゃつまらないじゃないか。永遠不変の生き物なんて俺は嫌だな」
「お前は飽きそうだな」


その姿を容易く想像することができて、思わず顔を緩ませた。それにつられてか、彼も笑みを漏らしてまた料理を口に運んだ。
あれだけあったというのにいつの間にか料理は彼の胃袋の中に消えてしまっていて、それは勿論俺にも言える事で、箸を置いて手を合わせると彼も行儀良くごちそうさまと呟いた。


「幸村、先に風呂に入れ。俺は片付けをする」
「分かった。じゃあ先に入らせて貰うね」


彼は頷いて立ち上がって、そしてはたと動きを止める。一瞬後に何かを考えるかのような顔になって、そして壁にかかっている時計を一瞥した。
バイトが終わるのが夜の十時頃。そこから帰って料理して食事しての間に、いつの間にか時間が過ぎ去っていた。長針と短針がもうすぐ重なろうとしている。


「やっぱりもうちょっと待つ。真田もここにいて」
「何だ?片付けをしたいのだが」
「いいから、座れ」


有無を言わさぬ口調で命じ、彼は俺の腕を掴んで無理矢理座らせる。こうなったら彼は誰の言うことも聞きはしない。しぶしぶ床に腰を下ろし、時計をじっと見つめている彼をぼんやりと見た。
カチン、と鈍い音が響いて長針と短針が重なって、ふいに彼が満面の笑みを浮かべながら俺の顔を見た。


「誕生日おめでとう、真田」
「……な、」


そう言えば今日は5月21日で確かに俺の誕生日で、ということは彼がここに来たのはこのためだったのだと気づいて、思わず脱力した。


「危うく忘れて風呂に入っちゃう所だった。危なかったな」
「そのために来たのか?」
「当たり前だろ。後は久々に顔が見たくなったからだよ。やっぱり、数年でも離れてたら懐かしいね」
「そうだな。確かに、懐かしい」


これだけ気軽に言い合える雰囲気と彼の強引さがあまりにも懐かしい。それはいつの間にか俺の中で巣食っていた虚しいという感情を消し去ってくれていた。
自分の誕生を忘れてしまうほど単調な日々は簡単に彼が壊してくれて、きっとこれから先も彼は俺の生活を一変させてくれるだろう。おもに、彼のしたいように。
そう思うと少しうんざりするような、けれど嫌とは言い切れない微妙な思いが生まれて、ほんの少し笑った。

昔の仲間からのメールが大量に届くのはその数分後で、おそらくこれからの毎日はこいつらに振り回されて虚しさに浸る余裕もなくなるだろうな、とそんな予感がした。






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