歩きなれたはずの廊下がどことなくよそよそしい。
決してそんなことはなく、きっと今の私の気持ちのせいなのだろうけど。
いつの間にかきつく握りしめていた手のひらを開くと、そこはじっとりと湿っていた。

いつも通りの放課後。
結局昨日は身体の震えがひどすぎて、彼の所へは行けなかった。
今日もまだ、一度もあの廊下へは足を運んでいない。

彼は怒っているだろうか。
それとも、何も思っていないだろうか。
どちらかというと、後者のような気がするけれど。


「……それは、それで……ちょっと悲しい、かな」


ぽつりと呟いて、最後の角を曲がる。
見慣れた薄暗い廊下が視界に広がり、鼻腔に埃の匂いが広がった。
目に付くところに彼の姿はなくて、恐る恐る廊下の奥へと進む。小声で名前を呼んだけれど、返事はなかった。


「……怒ってる、のかな……?」


それとも、どこかへ行っているのだろうか。例えば、柳のいる図書館とか。

そう考えた瞬間、昨日のあの闇を思い出して鳥肌が立った。
薄暗い廊下にも何かが潜んでいるような気がして、薄気味悪くなる。
じりじりと知らず知らずに足が引けて、きょろきょろと辺りを見回した時だった。


「随分と挙動不審だね」


冷たい声が頭の上から降ってくる。
勢いよく天井を振り仰ぐと、仰向けになって空中を泳ぐ彼の姿があった。


「……ちょっと、怖くなって……」
「怖い? 一体、何がだい?」


くるり、と音が聞こえてきそうなくらい気持ちよく反転した彼が、滑らかに床に降り立つ。
正確に言えば、その足は微かに浮かび上がっているのだけれど。


「……昨日、ね。怖いものを、見たから……」
「怖いもの? 俺よりも?」
「……幸村君は、怖くないよ……?」
「俺が怖くないの。へぇ、それは初耳。じゃあ、どうして昨日来なかったのさ」


不機嫌そうに眼を眇める彼を見ても、あの時のような冷たさは感じなかった。
今の彼から感じるのは、冷たさよりも拗ねた子供のような怒りだ。

それが少しだけ面白くて、思わず笑いを漏らす。
その事に気づいた彼が、先程よりももっと不機嫌そうな顔をするものだから、笑い声を我慢しきれなくなってしまった。


「……ふふ、幸村君、面白いね……」
「何笑ってるのさ。馬鹿みたいだね」
「……だって、子供みたいな顔するんだもの……」
「君の方が子供のくせに、よくそんなことが言えるね」
「……幸村君、何歳なの……?」
「幽霊に年齢があると思うのかい? そう思ってるとしたら、君は本当の馬鹿だよ」


照れ隠しのように次々と繰り出される悪態も、どうしてか笑う要素になってしまう。
こんなことをクラスメイトに言われたら、きっと次の日から学校に来られなくなってしまうだろうけど。


「……あのね、昨日図書館に行ったの……」
「七不思議を試そうとしたんだろう?」
「……あれ、どうして知ってるの……?」
「なんとなく、ね。図書館の方で闇が蠢いてるのを感じたんだよ」
「……幸村君、凄いね……」
「……で、図書館に行ってどうしたのさ? 七不思議の蓮二には会えたのかい?」
「……柳君の代わりに、闇が出てきたの。それで……」


それ以上、言葉が出てこなかった。
昨日の柳に言われた言葉は一言一句思い出せるけれど、それを彼に言っても良いものかどうか。

不思議そうに見つめてくる彼を見て、曖昧に微笑む。
柳の言った言葉の意味は分からない。彼に聞けば分かるかもしれない。
けれど、分からなければ分からないなりに、感じることもある。

例えば、柳の言った言葉の意味を彼に尋ねれば、きっと彼は良い顔をしないだろうと言う事。
例えば、柳は私に、彼に昨日の事を言って欲しいだろうという事。


「……闇に足を掴まれて、怖かったの。でも、柳君が助けてくれたよ……」
「そう。危機一髪って訳だね。闇に呑まれた人間は還っては来られないから」
「……呑まれたら、幽霊になるの……?」
「ならないよ」


きっぱりと言い切って、彼はふわりと宙を飛ぶ。
廊下の片隅に腰を下ろして、立ち尽くしたままの私を見上げた。


「普通の人間はどういう死に方をしても幽霊にはならない。……なれない、と言う方が正解かな。幽霊はね、心残りを残した人間のなれの果てさ。心残りのある人間が死んだ時、その心残りを強く思えば思うほど、幽霊になってしまいやすいんだよ」
「……じゃあ、……」


あなたにも、心残りがあるの?
そう聞きたかったけれど、その言葉は声にはならなかった。

代わりに浮かんだのは、いつも一人で泣いている小さな女の子。
誰の傍にも寄り添えない。誰の役にも立てず、自分さえも愛せはしない。

ずぅっと一人で泣いていた、哀れな女の子。
それは、私だ。


「……私も、幽霊になれるかな……」
「幽霊になりたいの?」
「……折角、幸村君と友達になれたから。また一人になるのは嫌だもの」
「馬鹿だね、本当に」


返す言葉が無くて、黙って彼に微笑んで見せた。
ひどく悲しげに眉を寄せた彼が私を見て、あからさまなため息をつく。
そうして、すぅっと音もなく近づいてきた彼の陶磁器のように白い肌が、とても綺麗だと、そんな場違いな事を考えた。

彼の蒼い瞳が目の前にある。
黙ってそれを見上げていると、ふいに彼の瞳に冷たい炎が宿った。
燃え盛る炎はどこまでも冷たく、真冬の朝のように凍えている。
静かに音もなく燃え下がる炎は、けれど何よりも激しい。

彼の浮かべる表情は無に近いけれど、それは何かを押し殺しているかのようにも見えた。
だから、私は黙って手を伸ばす。触れられないとは分かっているのだけれど。

すぅっと彼の身体を突き抜けた手には、冷たい冷気を感じただけだった。




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