眠気を誘う、生ぬるい風が窓から吹き込んでくる午後。

普段なら英語の授業が行われる六限目は、教師の出張で自習となっていた。
復習プリントが配られているものの、殆どの生徒がそれには手を付けずに自由に過ごしている。

ひそひそとした話し声が幾重にも重なりあって、ノイズのような音を生んでいた。
その中で、私はぼんやりと目の前のプリントを眺めながら退屈を持て余していた。


「……冷たかった、なぁ……」


元々、冷めた目をしていたけれど。
あんなにも冷たく、それでいて激しい感情をむき出しにした瞳は見たことがなかった。

昨日まで、毎時間のように彼の所に行っていたのに、今日はどうしても身体があの場所へ行こうとしない。
六限目が自習と知った時に、こっそりと教室を抜け出そうか迷った時も、結局踏ん切りがつかずにやめてしまった。

そんな自分の情けなさにため息を漏らした瞬間だった。


「………ねぇ、……る?」
「……ょかんの…………」
「……うれい………ふしぎ………」


噂好きの女の子たちが発する小さな声。
図書館。幽霊。七不思議。
途切れ途切れに聞こえてくる声を聞き違えていなければ、彼女たちはこう言ったはずだ。

今まで拡散させていた意識を耳に集中させた。
ひそひそと交わす言葉を聞き逃さないように、じっと聞き耳をたてる。


「えー、それ、絶対嘘でしょ」
「ほんとだって。見てる人がいっぱいいるんだよ?」
「いっぱいいるっていうのが、なんか怪しい」
「なんでよー」
「だって、幽霊でしょ? ふつう、霊感ある人とかが見えるんじゃないの?」
「まぁたしかに、そうかもしれないけど」
「そんな事より、どうやったら会えるの?」
「えーっとね、図書館の幽霊はね……」


図書館の幽霊。
それはきっと、あの目の細い、柳という人の事だ。


「第13書架の本を取って、その隙間から本棚の向こうを覗き込むと、誰かが見返してくる。驚いて視線を外したり、瞬きするとその誰かは消えてしまう。でも、瞬きせずにその誰かを見つめ続けると、一つ質問を許してくれるの。その本棚の向こう側の誰かは、その質問の答えをくれるんだって」


女の子たちの楽しそうな声が響く。
少しも怖がっていなさそうな声が、こわーいとはしゃいだ。


「それが三つ目?」
「そう。残る不思議はあと四つ、なんてね」
「全部知るとどうなるんだっけ?」
「お化けの仲間にされちゃうんだよー!」


だんだん大きくなっていく声を聞き咎めたのか、クラス委員が彼女たちを注意する。
ちらりと舌を出し合って、彼女らは声のボリュームを落としてしまった。
聞こえなくなってしまった噂話を残念に思いながら、聞いた話の内容を反芻する。

三つ目の七不思議があの柳という人で、どうやら質問に答えてくれるらしい。

ちらりと時計に目をやると、授業が始まってから30分が経過していた。
残り時間は、あと20分。

そっと音を立てないように立ち上がり、机の間をすり抜けて扉に向かう。
途中誰かに見とがめられないか心配だったけれど、幸い誰にも声をかけられることはなかった。


*


図書室には大量の書架がある。
順番に並んでいるそれを数えながら、本の間を進んだ。

司書の先生がいたらどうしようかと思っていたけれど、ちょうどよく席を外しているらしい。
他に生徒がいることもなく、理想的な状況だった。


「……11、12、13……」


呟いて足を止め、背の高い書架を見上げる。
読んだことのない難しげな本がずらりと並ぶ棚の、目線の辺りの本に手をかけた。

一瞬だけ躊躇い、そして思い切って本を抜く。
分厚い本を抱え込んで隙間を覗き込むと、その向こうに暗い影があった。

目、ではなかった。
そんなものでは決してない、どこまでも深いだけの闇。
ともすれば、飲み込まれてしまうのではないだろうかと思えるほどの、昏さ。


「ひっ!」


咄嗟に飛びのいて退けば、書架の隙間の闇が凝縮してずるりと這い出してくる。
声にならない悲鳴を上げてさらに後ろに下がった瞬間、ひやりとした空気が全身を包み込んだ。


「下がれ」


聞き覚えのある声が背後から響き、同時に書架と書架の間を突風が駆け抜けた。
あまりの風に強さによろめきながら目を凝らせば、視界の隅に隙間に戻っていく闇が見えた。

風は起きた時と同じような唐突さで消え、後には何事もなかったかのような書架だけが残る。
手に抱え込んだ本を見下ろしていると、脇から半透明の腕が伸びた。


「本棚にそれを戻した方が良い。また、あの闇が出てくる前に」


指の長いしなやかな手が、本を持ち上げて書架の隙間に戻す。
呆然としたまま腕の主を振り返れば、声の通り柳がそこに立っていた。


「……ぁ、……」
「怪我はなさそうだな」
「……あ、の……」
「お前は精市の所にいた……莉那だな。大方、七不思議の噂を聞いて試しに来たのだろう?」


一瞬だけ、黒い瞳が髪の隙間から垣間見えた。
先ほどの闇によく似た、黒く暗い瞳だった。

言葉を発せないまま数回頷けば、柳は一つ頷いてすっと滑るようにして距離を取った。


「普段なら、俺が人間の前に姿を現すのだが……今日は偶々席を外していた。おかげで、あんなものが出てきてしまった、という訳だ」
「……あんな、もの……?」
「興味本位で訪れる人間たちを引きずり込もうとする闇、とでも言っておこうか。下手をすれば、戻れなくなっていたぞ」


事もなげに告げるその内容はひどく恐ろしい。
戻れなくなっていた、なんて。
もしもあのまま引きずり込まれていたら、どこに行っていたのだろう。

ぞっと、背筋に冷たいものが走り、そのまま腰が抜けた。ずるずると床に座り込んで、静かに佇む柳を見上げる。
先ほど見えたはずの黒い瞳はどこにもなくて、無と現すのがぴったりの静かな表情が、ただただそこにあった。




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