朝焼けに染まる花を見つめながら、私は意識を研ぎ澄ませて目を閉じた。
私の意識が存在の楔から逃れて、どこまでもどこまでも飛び上がっていく。それを拒む事なく受け入れて、溶け出していく意識の全てから世界を見た。

美しい花々とその先に広がる見慣れた風景。
鳥のように空を舞いながらどこまでもその景色を遡り、遥かな果てへと飛んでいく。
窮屈な入れ物から解放された私はその感覚に恐れを抱く事無く、目に映る全ての物に興味を抱きながら次々と見えるものを変えていった。

このままどこまでも飛んで行ける。そう歓喜した私の耳に、聲が届いた。


『――――――』


聴こえない聲。響くだけの音。

それに行く手を阻まれた私の意識は、一瞬で器である零体に呼び戻されて現実を知覚する。
びくりと自分の身体が震える感触に違和感を抱きながら目を開けば、風に揺れる蒼が目の前にあった。


「また視えたの?」
「ううん。今日は視えたんじゃなくて、聴こえたの」
「いつもの聲?」
「うん……ちょっと悲しそうな聲」
「そう。じゃあ、今日もまた人間が来るね」


こともなげにそう言いながら、彼がふわりと宙に浮かび上がる。朝焼けに照らされた身体が一瞬透けて、幻想的に輝いた。
それを見上げながら木製のベンチから立ち上がって、私は彼を追いかける。辺りに満ちる花の香りが、優しく私を包み込んでくれた。







学校という区切られた空間の中で、必ず広まる七不思議の噂。
大抵の場合、それらを口にして楽しむのは女の子だ。そして、口から口へと伝わる噂は僅かに形を変えながら、何代を経ても消える事無く受け継がれていく。

この学校に伝わる七不思議もまた、例外ではない。


一つ目は、図書室の本棚に潜む闇。
それに認められれば、一つ問いを許される。その問いに返る答えが外れる事は無い。

二つ目は、和室の座敷童。
使われる事のない和室に住む座敷童。それを見たものは幸福を得ると言う。

三つ目は、調理実習室の浮かぶ包丁。
人気のない調理実習室で包丁が空を裂いて飛び回り、人を襲う。

四つ目は、階段から突き落とす銀色の霊。
それは、誰もいない階段で後ろから人を突き落とす。

五つ目は、階段から落ちる人を掬う霊。
それは、階段から突き落とされた人間を掬い上げる。

六つ目は、真夜中の廊下で笑う悪魔。
それは、月明かりに照らされた廊下で哄笑する恐ろしい悪魔。

七つ目は、哀しみを癒す屋上。
哀しみを抱いた人間はその屋上に呼ばれ、そこで少女と少年の霊に出会う。
彼らと話をする事が出来たものは、胸に秘めた哀しみを癒す事が出来る。


密やかに伝えられる七不思議を試そうとする生徒は後を絶たず、そしてその全てを知った者はこの世には帰ってこられないとも伝えられている。

学校という平和な日常を侵す、どこまでも深い闇。
それに魅入られたものは、ただその深みに落ちていくだけだ。







とても長い年月が過ぎたというのに、私は時々人間だった頃の夢を見る。
幽霊にとって眠りは必ずしも必要なものではなく、私もその条理に従って時折微睡みの中に意識を落とすだけだけれど、それは確かに眠りと呼べるものだった。

その中で夢を見た日には、必ず朝焼けの中で意識を飛ばす事にしていた。
どこまでも飛んでいく意識だけの私は、そこで何かと出会う。それは聲である事もあるし、時にはぼんやりとした影が視える事もあった。
それが聴こえたり、または視えたりした日には、哀しみを抱えた人間がやってくるのだ。


零体である存在からさらに意識を飛ばす事が出来るのが私に与えられた力。
そして、胸の内に抱いた哀しみに誘われてここにやってくる人間を、彼と二人で癒すのが私たちの任だった。


人の身の内にある哀しみは、かつて彼の中に昏い炎が燃えていたように青い炎を燃やしている。
それはその人間の心を燃やしつくさんばかりに大きく燃え上がっている時もあれば、まだマッチの先に灯っている日のように小さい時もあった。

その哀しみの理を聞いて、その炎を引き取るのが私の役目。
消えた炎の傷跡を、蒼い霧で癒すのが彼の役目だった。


過ぎ去って行った長い時の間に、一体どれだけの人間を癒してきただろう。
人を見送り続ける私たちにできるのは、ほんの些細な手助けのみ。その先の彼らの人生が幸せである事を、ただ祈るだけだ。

この地を、そしてこの学校の人間を守りながら、これからも私たちは七不思議として存在し続ける。
学校という空間に区切られた世界は、滅多な事では揺るぎもせずに過ごし慣れた日々を繰り返していた。


「来たみたいだよ、莉那」


彼の声より一瞬遅れて、屋上の入り口が僅かに開いた。じわじわとその隙間を広げて、向こう側から一人の少女が顔を覗かせる。
何かを探すように彷徨う視線が私を捉え、目が合った瞬間その心の中に燃える青い炎が見えた。
まだ幼く綺麗な少女の心を覆い隠し、燃やしてしまおうとする大きな炎。それはいつか少女の心を焼き尽くして、それを殺してしまう。


「かなり大きくなってる……もう少し遅ければ心が消えてしまっていたかも」
「間に合って何よりだ。さぁ、早速始めよう」


座っていたベンチから浮かび上がり、私を見つめて呆然と口を開く少女の前に降り立つ。
なるべく少女を怖がらせないように笑みを浮かべて、そっとその心の炎に手を差し伸べた。指先がそれに触れれば、不意に見知らぬ情景が浮かび上がった。

雨の降りしきる空。鉛色の空気。濡れた地面と落ちた傘。すぐ目の前にいたのに、遠い場所へ行ってしまった誰か。引き裂かれた喪失感。響く絶叫。視界に満ちる、赤い色―――。
少女の痛みの理が、その炎を介して私の中に流れ込む。人間によってその中身は様々で、いつだってこうして見ているだけで胸が締め付けられる思いがした。


誰かを失った痛み。
もう二度と会えない後悔。

その二つが、この少女が背負う哀しみの理だ。


「辛い事が、あったんだね。沢山苦しんで、悲しんで。それであなたはこんなにも傷ついてしまったんだね」


少女は声にならない口の動きで、幽霊、と一言呟いた。
その瞳に怯えるのは恐怖に近い畏れの色。噂を聞いて誘われてくる人間の殆どが、私達を見て同じような反応を返す。
それがごくごく自然な感情の動きで仕方がない事なのだけれど、いつもほんの少し寂しいと思ってしまう。


「でもね、大丈夫だよ。その哀しみがなかったことにはできないけど、その痛みは私が貰うから」
「……え?」
「きっとその哀しみはあなたの中できちんと整理されて、あなたのものになる。時が流れていくほどに、その色の輝きは増していく。だから、全てから目を背けるんじゃなくて、ほんの少し見方を変えて受け止めてあげてね」


唖然とした表情を浮かべる少女の心に手を伸ばして、燃える炎をそっと両手で包み込んだ。彼の恨みを引き受けた時と同じように、その炎をしっかりと抱きしめる。
残された少女の心は長く炎に焼かれていたせいで黒く焦げついていた。痛々しいその痕は、少女の苦しみの深さを顕している。

炎を抱きしめたまま一歩退けば、入れ替わりに蒼い霧が宙を舞った。きらきらと光を反射して輝きを増しながら、霧が傷ついた少女の心を包み込む。
それが黒く焦げた心に触れると、瞬く間にその痕が癒えて消えていった。霧はくるくると舞って全ての痕を癒し、ふわりと霧散する。


「ほら、もう痛くないでしょう」


抱きしめた青い炎が火の粉を飛ばす。それが少女にかからないように気をつけながら、怯えたように俯いている少女の頭を撫でた。


「これからも前を向いて、強く生きてね。あなたならきっと大丈夫だから」


その言葉を最後に、少女の頭から手を離してベンチの傍で待つ彼の方へと踵を返した。
傷を癒した人間は、少しすれば衝撃から覚めて屋上を出ていく。彼らが再びここに来る事は無い。傷を持たない人間には、私たちの姿は見えず、ここに誘われることもないからだ。


「あのっ……」
「――え?」
「ありがとう、ございましたっ!」


先程まで怯えていた筈の少女の口から、凛とした声が響く。慌てて背後を振り返れば、両方の瞳からぼろぼろと涙を零した少女が私を見つめていた。
こんなにもはっきりとお礼を言われたのは初めてで、返す言葉が咄嗟に思い浮かばなかった。そうして戸惑っているうちに、少女は小動物のような身のこなしで身を翻して屋上から去ってしまう。


「良かったね。あの子はきっと、君の事を忘れないよ」
「そう、かな。でも、手遅れになる前にここに来てくれて、本当に良かった」
「そうだね。……その痛みはどんな痛み?」
「大切な人を目の前で失ってしまった哀しみと後悔。とても深い、悲しみの炎だよ」


抱きしめた炎を自らの胸元に押し付ける。私の心にそれを導いて、燃える炎のままそれを私の中へと取り込んだ。

この炎は宿主の心から離れれば、ゆっくりと時間をかけて鎮火する。それまで私の心の中に留めて、消えてしまった後の残り香を彼の力で消してもらう。
それを終えてようやく、一つの炎が完全に消えるのだ。


「哀しみを取り込み過ぎないように気をつけるんだよ」
「うん。大丈夫、この炎はもう消えていくだけだから」


蒼い瞳を見返して微笑めば、彼も同じように穏やかな笑みを返してくれる。
風に乗って蒼い霧の残滓が宙を舞い、花の花弁と混じり合いながら私たちに降り注いだ。


哀しみに満ちた世界の中で、それを癒す場所がある。
そこで癒された誰かがどこかで別の誰かを癒す存在になって、そうして少しでも哀しみが消えてくれれば良い。

幸せが満ちる世界であれと願って、私はただ哀しみを引き受ける。
いつかこの役目が終わり世界が暖かい輝きを取り戻すまで、彼と二人、この場所で人を見守っていく。


それが、私の何よりの幸せだった。




-FIN-




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