太陽が傾いて、夕焼けが世界を染める頃、私たちは屋上へやってきた。
足を使うのではなく浮いて移動したり、近くを歩く生徒が誰も私を見なかったり。幽霊になったのだからそれが当たり前だと思うのに、すぐに慣れる事はできそうになかった。

彼に手を引かれて、あの日と同じように木製のベンチに腰掛ける。
オレンジ色の輝きに照らされて、美しく咲き誇る花々がゆるやかな風に揺れていた。それを眺めながら穏やかな一時を過ごす。


「……幸村君、聞いてもいい、かな……?」
「どうしたんだい?」
「……あの時、必死だったんだけど……幸村君の恨みは、ちゃんと消えた……?」


冷たい蒼を見つめて、何よりも心配だった事を問う。

あの時、確かに昏く燃え上がる炎を握りしめて私は命を捧げた。けれども、その契約に反して私は現世へと戻ってきてしまった。
果たして、彼の恨みはきちんと浄化できているのだろうか。

自分の胸に手を当てて、彼が何かを考えるような顔をする。
ふわりと吹いた風が柔らかな髪を揺らして、薄っすらと花の香りを運んできた。


「大丈夫。もうここには恨みはない。人間を見る度に込み上げてきた衝動も、もう感じない。俺の恨みはね、君の人間としての器が引き受けて、それを代償として浄化してくれたんだ。今の君は、死んだ後に俺が呼び戻した莉那の魂なんだよ」
「……そ、っか。じゃあ私、ちゃんと死ねたんだね。幸村君の恨みを持って行けたんだね……」
「君にはいくら感謝してもしきれない。―――でも」
「……?」
「いくら俺の為だからって、もう二度と自分を危険にさらしたり、自分を傷つけたりはしない事。莉那が傷ついたら、俺も悲しい」


真面目な顔で私を真っ直ぐに見つめて、彼が言葉を紡ぐ。


「だから、そんな事はもう絶対にしないように。……まぁ、これからそんな事態も滅多にないだろうけどね」
「……うん。もう絶対に、しない……」
「約束、だよ」
「……約束、だね……」
「――それと君に言わなきゃいけないことがある」
「……言わなきゃいけない事……?」
「他の皆にも聞いてみなきゃいけないだけどね。俺たちだけの問題じゃないし」


夕日が沈んでいく。
山の稜線に隠されて、少しずつその光を失いながら、最後の瞬間まで日は輝き続ける。


「この地は元々澱みを溜めこみやすくてね。七不思議は俺を封じると共に、澱みが溜まり過ぎる事のないよう土地を治めていたんだ。だからこそ、七不思議を消滅したまま放っておくわけにはいかない。俺が鬼に堕ちかけた時に現世でも闇が活性化して、その影響がまだ残っているしね。それに、普通の幽霊のままだといつ昇華してしまうか分からない」
「……うん……」
「蓮二たちと相談して、もう一度この学校に七不思議を作ろうと思うんだ。君さえ良ければ、一緒に七不思議になってくれるかな」
「……でも、私……何にもできないよ……」
「何かをする必要なんてないよ。君は俺の傍にいてくれれば良い」


蒼がオレンジに染まって、薄い紫色に変わる。
空の色が時と共に移り変わり、夜の色に染まっているのと同じように、彼の瞳も色を変えていた。

真剣な表情の彼を見返して、一つ頷く。
それを否定する理由なんてどこにもなくて、ただ彼の傍に寄り添う事を決めた私には何よりの誘いだった。
自分が何の役にも立たない事は分かっていたけれど、それでも彼の傍でいられるのならなんだって良い。


「ありがとう。皆と相談して、場や七不思議としての任を決めないとね」
「……七不思議になったら、学校から出られなくなっちゃうのかな……」
「多分そうなると思う。―――そうだ、君はその前に行くべき所があるね」
「……うん。私の身体は、異界にあるの……?」
「いいや。君の身体は器として差し出されたから、君を呼び戻した時に消えてしまった」
「……じゃあ、現世では行方不明になるのかな……」
「多分そうなると思う。できる事なら器もこちらへ戻せればよかったんだけど……」


夕日が沈み切り、月の輝きが辺りを照らしはじめる。

今はまだそんなに遅い時間ではないけれど、連絡もなく帰らない私の事を彼らは心配しているだろう。さらに時が進んで夜が深まれば、否応なくその心配は膨れ上がる。

彼らが真実を知る事は無い。今の私が彼らの前に立っても、きっと彼らは気づかない。
けれどそれでも、最後に会っておかなくてはならない。何を言っても聞こえないとしても、別れの言葉は告げておくべきだ。


「……幸村君、一緒に来てくれる……?」
「良いのかい、ついて行っても」
「……うん。一人で行くのは怖いから……」


決して、私は良い娘ではなかった。友達を作る事ができず、勉強も運動も何かの才能を発揮することもなく。
どこまでも平凡に、そして孤独な一生を歩んだ。

いつだって彼らを悲しませてきた。何度も何度も落胆させた。
そして、最後は別れも告げずに消えるのだ。いくら彼らが私を探しても、その身体さえ見つかる事は無い。
こんな私をここまで育ててくれた彼らに対して、あまりにも酷い仕打ちだった。世界中のどこを探しても、これ程の親不孝者はいないだろう。


「―――行こうか」
「……うん……」


手を引いてくれる彼に誘われて、私は夜の世界へと浮かび上がる。
空から眺める住み慣れた町はどこかよそよそしい雰囲気を醸し出していて、自分がこの町の条理から外れた存在になってしまったのだと思い知らされたような気がした。





今日の朝家を出てからそんなに長い時間が経っている訳ではないのに、あまりにも色々な事があったせいか自分の家を見ると微かな懐かしさを覚えた。
見慣れた門扉を見つめてからふわりと浮かび上がって、玄関の扉に手を伸ばす。学校で何度か壁をすり抜けたけれど、どうしてもすり抜ける瞬間に目を閉じてしまう。

生まれた時から住んでいた家。いつかは出ていく事になったのだろうけれど、こんなに早くその時が来るとは思っていなかった。
もう音を立てる事も出来ないのに、無意識に足音を忍ばせてしまう。そろりそろりと明かりのついたリビングに向かえば、父と母はいつものようにそこにいた。


「……お父さん、お母さん……」


ぽつりと呟いた声が、彼らに届く事は無い。
私と彼らは別の世界のものになってしまったのだから。

明るい場所に一歩踏み込んで、ソファに並んでテレビを見つめている彼らの背後に立つ。
子供の頃から仲睦まじげに笑いあう彼らの後ろに立つことが好きだった。穏やかな空気を纏う彼らの傍なら、私は委縮せずに心から笑う事が出来たから。

届かない事を知っていながら伸ばした手は、彼らの肩に触れる事無く突き抜けた。
もう二度と彼らに名前を呼んでもらう事も微笑みかけてもらう事もできない。それはとても悲しいけれど、それよりも辛いことがあった。


「……幸村君。私の存在は、なかった事にはならないのかな……」


幽霊に引きずり込まれた存在には、行方不明者として扱われる時と元々居なかった事になる時の二つの結末がある。

彼らが私を忘れてしまえば、どこにも悲しむ必要はない。最初から、私なんていう存在はなかったのだから。
私の事を覚えている限り、彼らは私の事を背負って生きていく事になる。それが何よりも辛く、悲しい。


「それは俺にも分からない。どうして同じように幽霊に引きずり込まれた人間の扱いが違うのか、どういう基準でそれが分けられるのか、何もわからないんだ」
「……なかった事になれば良いな。それなら、誰も傷つかなくて良いから……」
「莉那は忘れられても悲しくないのかい? 君は二人の事が好きなんだろう? 彼らが君を忘れても、君は彼らを忘れられないんだよ」
「……私は、良いの。私には幸村君がいるし、それに七不思議の皆がいるから。もう一人じゃないし、寂しくもない。でも、きっとお父さんとお母さんは私の事を覚えていたら、ずっと悲しい思いを抱えて生きていかなきゃならない……」
「―――君の事を忘れてしまう事を、彼が望むとは限らないよ。例え覚えていることで悲しむのだとしても、自分の娘の事を忘れてしまいたいなんて思う親はいないと思う。そこに君がいたという事実を、彼らは覚えていたいと思う筈だ」


本当に彼らはそう思ってくれるだろうか。
こんな私の事を覚えていたいと、忘れたくないと、そう願ってくれるだろうか。

伸ばしていた手をそっと引いて、一度リビングの入り口に留まっている彼を振り返った。
穏やかな冷たい蒼を見つめれば、その中に宿る暖かい光が私を励ましてくれた。

もう一度彼らに向き直って、覚悟を決めて口を開く。
届く事のない声で別れを告げる為に、私は息を吸い込んだ。


「……お父さん、お母さん。私をここまで育ててくれて、本当にありがとう。当たり前の事ができない私を愛してくれてありがとう。いつも迷惑をかけてばっかりで、沢山心配させちゃってごめんなさい。ちゃんとお別れの言葉も言えなかったし、二人に何にもできなかった。こんな私で本当にごめんなさい……」


たどたどしく言葉を紡ぐうちに、目頭がじんわりと熱くなった。
歪んだ視界の中で、彼らはいつもと同じように二人並んで私に背を向けている。


「……あのね、私、友達ができたの。明るくて賑やかな丸井君と、いつも穏やかな柳生君と、少し変わってて掴みどころのない仁王君と、真っ直ぐ前を向いてる真田君。あとね、今はいなくなっちゃたんだけど、丸井君と仲良しのジャッカル君。それに……友達って言っていいのか分からないけど、柳君と赤也君っていう子がいるの。それから―――私と一番最初に友達になってくれて、これからずっと一緒に過ごしていく幸村君。ほら、凄いでしょう。こんなに沢山、友達ができたんだよ……」


ほんの些細な事でも、満面の笑みと暖かい手で私を褒めてくれたお父さん。
あなたの大きな手は、穏やかな声は、いつだって私を安心させてくれました。


「……すごく大切な人ができたの。その人をどうしても助けたくて、誰よりもその人が大事で、色んな事を頑張ったよ。きっと聞いたら二人ともびっくりすると思う。一生懸命頑張ったから、その人の事を守る事が出来て、それでこれからも一緒にいられるの。――でも、その代わりにもうお父さんとお母さんの傍にはいられないの……」


泣いている私を優しく慰めて、時には甘やかしてくれたお母さん。
あなたの作る美味しい料理、いつかきっと教えてもらうつもりだったんだよ。


「……それでね、これからはずっと学校で皆と一緒に過ごしていくの。七不思議になって、土地を守るんだよ。私なんて幽霊になったばっかりで、全然何にも出来なくって、きっと皆に迷惑をかけちゃうんだろうけど――でもね、これからも精一杯頑張るよ。もう一緒にはいられないし、もう二度と会えないし、それはすごく寂しいし悲しいけど、でも私頑張るから。だから……」


胸の奥から熱い塊が込み上げてきて、言葉が声にならない。
ぼろぼろと零れる涙は宙に溶けて消えて、床に落ちる事さえなかった。


「……お願い、悲しまないで。泣かないで。苦しまないで。すごく勝手なお願いで、最後の最後まで私はあなたたちに何もできないけど……でも私ね、これから幸せになるから。もっともっと頑張って、皆と一緒に幸せを探すから。だから――私は、大丈夫だから。もう会えないけど、見えないけど、でもこれからも頑張っていくからね……」


頬を撫でる指の感触に隣を見やれば、いつの間にか彼がすぐ傍に立っていた。
泣き崩れてしまいそうになる身体を彼の手がそっと支えてくれる。縋りつくようにしてその肩に顔を押し付ければ、ぽんぽんと背中を優しく撫でてくれた。


「莉那さんは、俺の為に命を落としました。あなたたちから大切な娘さんを奪ったのは俺です。どんな言葉でも、どんな事をしても、報える筈のない取り返しのつかない事をしてしまった事はよく分かっています。だから――必ず俺が彼女を幸せにします」


深く深く、彼が二人の背中に頭を下げる。返事はなく、彼らが振り返る事は無いけれど、彼はしばらくの間そうやって頭を下げ続けていた。

届かない言葉が、少しでも想いを伝えてくれれば良い。
彼らの悲しみが癒える事を祈って、私は彼の手にそっと触れた。


「……幸村君、もう行こう……」
「―――そうだね」


ようやく頭を上げた彼が私の手を引いて浮かび上がる。それに従って天井を通過しながら、最後に一度だけもう二度と見る事のない両親の顔を見た。
それを絶対に忘れてしまわないよう心に焼き付けて、私は再び夜の空へと飛び上がる。

まだ止まらない涙を何度も拭いながら先を行く彼を追いかける。
繋いだ手の温もりだけが、確かな現実の印。私と両親が離別した証だった。




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