濃霧のように立ち込めていた闇が、少しずつ晴れていく。それと同じように響いていた低い唸りもどこかへと消えた。
残り香のように時折舞う蒼い輝きを視界の隅に捉えながら、焦燥感を胸に異界を駆け抜ける。


「柳君、これは―――」
「闇が晴れていく。唸りが消えた以上、鬼も引いたと考えていいだろう」
「では、幸村君は……」
「精市が鬼と為ったのならこの現象は不可解だ。これ程近くにいたのに俺たちは引きずり込まれていない。おそらくは―――」


その先に続く言葉はない。黙り込んだ柳を見やって、柳生が悲しげに俯いた。


「……莉那さんは、本当に―――」


言いかけた柳生の声に重なるように、断続的に響く嗚咽の声が響いた。
微かに聞こえるそれを追いかけて、方角など分からない闇の中を進む。何度か進む方向を修正しながら突き進み、ようやく闇の中に蹲る彼の姿を見つけた。


「――精市!」


漆黒の世界の中で、赤く染まる唯一の場所。
その中心で人間の少女を抱きしめて、蒼い彼が悲痛な声で泣いている。

聞いているだけでその悲しみの深さがありありと伝わるほど、その声は哀しい。
柳の声に反応もせず俯いて涙を零す彼に、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。

赤い世界の外側に立ち尽くして、いたたまれない気持ちを抱きながらその声を聞く。隣の柳を見やれば、昏い瞳が僅かに開いて、闇よりも濃い玄が覗いていた。


「……柳君、」
「柳生、この世に救いはあると思うか」
「は? 救い、ですか?」
「そうだ。あの人間が精市を救ったような救いが、この世にあると思うか」


彼の鬼化を止めてその存在を助ける為に彼女が取った方法。
それは確かに彼を救い、だからこそ彼は今あんなにも悲痛な声で泣いている。

果たして、今の彼は彼女の想いを救いとして受け止める事はできるのだろうか。


「……そもそも、幸村君は本当に救われたのでしょうか?」
「さあ、な。だが、精市が鬼と為らずに済んだのはあの人間が命を懸けて恨みを浄化したからだ。その点については疑いようがない」
「ですが―――」
「俺は奇跡というものを信じるつもりはないが―――今回ばかりはそれを願うのも悪くないか」
「柳君?」


ぴちゃり、と湿った音を立てて柳の足が赤い世界に入り込んだ。
その瞬間、俯いたままの彼の周囲に蒼い光が湧き起こり、彼らを守るように乱舞する。昏い瞳が僅かに細められ、蒼い輝きから柳を守るように闇が渦巻いた。二つの力がぶつかり合って相殺され、音もなく消えていく。
きらきらと力の残滓が宙を舞い、柳の操る闇がそれを貪欲に呑みこんだ。蒼い輝きが勢いを増して闇に躍り掛かり、昏い色を光の渦で掻き消していく。

それを気に留めず、柳がさらに彼らに近づいた。俯いていた彼が僅かに身じろいで顔を上げ、冷たい蒼が闇の中に瞬く。
焦点の合わない濁った蒼が、闇を纏う柳を剣呑に睨み付けた。


「……蓮二……」
「精市、力を収めてくれ。俺はこれ以上耐え切れない」


蒼い瞳がのろのろと周囲を見回し、それに応じて輝きが緩やかに消えていく。
それを見届ける前に彼は再び俯いて、力を失った少女を強く抱きしめた。彼らのすぐ傍まで近づいて、柳がその場に片膝をつく。


「何があったんだ、精市」
「―――分からない……俺が、鬼に堕ちて……それで全部終わりだと思ったのにっ! なのに、莉那が異界にいて、鬼に襲われて……! 俺が気づいた時にはもうっ……!」


彼に抱きしめられた少女の腹部にぽっかりと穴があいていた。そこから流れ出した血の量と傷の深さを考えれば、すぐに現世に連れ戻っても助かる可能性は限りなく0に近かっただろう。
鬼に襲われてから彼に出会った少女は、最後の力を振り絞って全てを成し遂げたのか。


「頭の中が、真っ暗になって……莉那の事、助けたいと思ったのに……なのに、このまま鬼に堕ちるのかなって……。でも、気が付いたら全部消えてたんだ。鬼に為る苦しみも、人間への恨みも、全部全部なくなってて……どうしてか、分からないけどっ……でも、莉那がっ……冷たく、て。どうして、こんな事に…………」


途切れ途切れの言葉を静かに聞き、柳の昏い瞳が柳生を見やる。話を聞く限り、予想はほぼ真実と重なっていた。
何を告げなくてはならないか、そしてどう告げればいいのか。何度も同じことを考えながら、柳は口を開いた。


「精市、俺は一つ嘘をついていた」
「……う、そ……?」
「お前を助ける方法が無いと、そう言い続けていたが……一つだけ、方法があった。それは俺たち幽霊ではできない方法で、尚且つそれを皆が知れば苦しむことになるだろうという予測ができた。だからこそ、俺は誰にも言えなかった」
「方法、って……一体、なんなんだい」


濁った瞳が僅かに覗く。その蒼を見つめて、低い声でそれを告げた。


「想い合う人と霊がいる時、人がその命を以て救いを願う事で霊の恨みを浄化する事ができる。―――古い本に書いてあった方法だ」
「じゃ、あ……」
「そうだ。その人間はお前の恨みを浄化し、鬼化から救ったんだ。そしてその代償として――自らの命を差し出した」


その方法がどういう原理で為されるものなのかは分からない。けれど、こうして成功している所を見ると彼女にはその資格があったという事だろう。


「俺の為に……? 俺を、救う為に……莉那は命を落とした……?」
「そうだ。それがこの人間の望みだった。その為に危険を冒して異界へ渡り、お前を探していた」
「そんな、事っ! 俺の事なんてっ……そのために君が死んだら、意味がないじゃないかっ…………!」
「それでも、とその人間は願ったという事だ。自らの命を投げ打ってでも、お前を救いたいと願ったのだろう」


残酷な事を告げているという自覚はあった。けれど、いつかは知らなければならない事実だ。
時が経てば経つほどに、彼の心は苦しみに犯されていくだろう。そして、今ならばまだ間に合う可能性があるのだ。それを逃す訳にはいかない。


「精市、よく聞いてくれ。その人間は死んでしまった。だが、今ならまだ間に合う」
「……間に合う?」
「お前が俺たちを引きずりこんだ時の事を思い出せ。あの時、俺たちもまた既に死んでいただろう」
「何を、言って……だって、俺は皆を―――」
「そうだ。あの時、お前は俺たちを殺した。そして、正気に戻った後俺たちを幽霊に引きずり込んでその存在を救ったんだ」







衝動が過ぎ去った後にやってきたのは、深い絶望と後悔だった。
廊下には仲間たちが折り重なるようにして倒れ、既にその息がないのは自分が一番よく分かっていた。

死んでしまった。
俺が、殺してしまった。

人が死んだら生き返る事はない。もう二度と、彼らには会えない。こんな事をしてごめんと、一言謝る事すらできない。


「俺、は……」


傍らの誰かの身体を抱きしめて、慟哭に近い声で絶叫する。
戻ってきて欲しいなんて、壊した俺が願うような事ではないとは分かっていたけれど、それでもそう願わずにはいられない。

この場所に戻ってきて、俺の傍に帰ってきて。
そして、また以前と同じように―――。


心の底から強くそう願った瞬間だった。
仲間たちの身体が強い輝きを発して、その光が視界を埋め尽くした。







「俺は、あの時……」
「お前は俺たちを死の道から引き戻し、現世へと留めてくれた。このおかげで、俺たちはお前の傍いて、お前を助ける事が出来たんだ」
「でも、それはっ!」
「そうだ、お前がその人間を引きずり込むという事は、その人間が幽霊になるという事だ。だが、今ある可能性は二つしかない」
「…………っ」
「全てを諦めてその人間を失うか。それとも、その人間を幽霊に引きずり込んで存在を留めるか。―――どちらにするかは、お前で決めるんだ」


言葉を言い切った柳が、立ち上がって数歩下がる。何かを促すかのようなその仕草に従って、そっと冷たい身体を赤く濡れた世界に降ろした。
ようやく見た彼女の顔は、薄く笑みを浮かべていて。震える手で頬に触れれば、身体と同じように氷のように冷たかった。

手の中の枷の欠片を感じながら、彼女の手を取る。その拍子に彼女の手の中から、自分が握っているのと同じような小さな欠片が転がり落ちた。
切れてしまった枷の糸は、その末端の双方に同じ欠片を残したのだろう。赤く濡れたそれを拾い上げて、彼女の小さな手ごと欠片を二つ握りしめた。


「君は、俺を恨むかな。幽霊になんか、ってそう言うかもしれないね」


ぽつりと言葉を呟いて、零れる涙をそのままに無理矢理笑顔を作った。


「でもさ、君に死んで欲しくないんだよ。だから――」


ごめんね、と呟いた言葉と同時に、彼女の身体が光に包まれる。
目を細めてそれを見つめながら、ただ願う。あの時と同じように心の底から、強く、強く。


「君に、俺の傍にいて欲しいんだ」


闇に包まれた世界に、眩い光が満ちた。




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