幼い子供が泣いているような、深い悲しみに染まった叫びが響いていた。少しずつ離れていく世界の中で、それだけが私の心を捕えて離さない。

泣いているのなら、慰めて。
悲しんでいるのなら、傍にいて。
寂しがっているのなら、抱きしめて。

大丈夫、とただその一言を告げたいのに、冷え切ってしまった身体では身じろぐ事もできなかった。
辛うじて開いている瞼が時折痙攣する。その度に視界がぶれて、すぐ傍にいる筈の彼の姿を見つけられずにいた。


蒼の左目と、金の右目。
最後に見た彼は、二色の瞳を苦しげに歪めて私を見ていた。

ようやく会えた彼に告げたい事は沢山あって。
けれど、きっともうそれは叶わない。


彼からもらった沢山のもの。
とても暖かかった彼の優しさ。
今も褪せない儚い約束と思い出。

初めてできた、私の大切な友達。

世界からはみ出して、普通の人と同じように生きていく事さえできなかった私を受け入れてくれた、とても大切な人。
だからこそ、こんな私の為に苦しんだ彼を、その苦しみから救わなければならない。


「……ゆき、む……」


耳の奥で響く叫びが苦しげに歪む。それが彼の苦しみをありありと表しているようで、胸の奥がひどく痛んだ。
何かを告げたいと思うのに、声は掠れて宙に溶けていく。伝えたい想いがこんなにもあるのに、ほんの少しだって届かない。

人間に殺され、人間を恨み、そして人間を守って鬼に堕ちる。
最初から最後まで人間に振り回されたのだから、苦しみ抜く彼を救うのが人間であるのは当然の事だ。

きっと彼は悲しむだろう。どうしてそんな事を、と怒るかもしれない。
いつものように冷たい声で、いつものように冷たい蒼で、その時彼は私を見て、私の名前を呼んでくれるだろうか。
その声を聞く事はできないけれど、それでも構わない。そうやって彼が悲しんだり怒ったり、以前のように七不思議たちと過ごしていけるのならそれが一番だ。
私が壊してしまった日常を取り戻す事が出来るのなら、そこに私がいなくてもいい。


握りしめたままの枷の欠片が、不意に燃えるように熱くなった。それを手放す力もないまま、歪んだ視界の中に彼の影を探す。背中に回された冷たい手の感触ははっきりと感じられるのに、いくら探してもそこに彼の姿は見つけられなかった。
私の終わりがあまりにも近いから、目は何も映さないのかもしれなかった。


少しでも気を抜くとすぐに眠ってしまいそうな程に身体が重い。意識も半分以上がゆらゆらと揺れていて、その夢見心地の中で私はのろのろと手を伸ばす。
背中に回されている手に触れて、そこから彼の身体を探した。冷たい腕から肩へ、そして柔らかい髪を撫でて、その顔へ。
触れるだけで分かるほどその表情は歪んでいて、頬には冷たい液体が伝っていた。それを指先で拭って、声にならない掠れた息で大丈夫と呟く。

ねぇ大丈夫だよ、このまま鬼に堕とさせなんかしないから。
そのために私はここに来たから。


「……だか、ら……」


どうか、どうか。
優しい彼が笑って過ごせる世界が、ありますように。


薄れていく意識の中、私はただ願う。
何度も読み返した一節が脳裏を過ぎって、その瞬間胸の奥で激しい熱が生まれた。
衝撃が全身を貫いて、びくりと手足が痙攣する。握りしめた欠片の熱と身体の中の熱が混ざり合い溶け合って、私の意識をどこかへ引きずり込んでいく。

彼に触れた指先が黒く染まった視界に昏い炎を映し出した。
彼の胸の奥で燃え上がるそれは、彼が抱く恨みの炎だ。今それは轟々と激しく燃え盛り、彼を別のものへと焼き変えようとしていた。
本来の彼の色は、どこまでも冷たい蒼。昏い炎に呑まれ、掻き消えようとするその色に手を伸ばした。

消えかけていた蒼をそっと取り上げて、燃える炎から守る。その代わりに昏い炎を手に収めて、零れてしまわないようにきつく握りしめた。
何があっても手放さないように。それと引き換えに消えゆくこの身と一緒に、遠い所へ持っていくのだ。


「……ほ、ら……」


あのね、幸村君。もう恨まなくていいんだよ。もう憎まなくていいんだよ。皆と一緒に笑っても良いんだよ。一人で苦しまなくていいの、寂しい場所に隠れて、誰かを守るために苦しまなくていいんだよ。幸村君は幸村君の為に笑って、悲しんで、幸せに、なって――――。


炎が私の手を焼いて、昏い感情を私の中に植え付けようとする。
最後の力でそれを押し返して、届かない言葉を紡いだ。


出会ってくれて、ありがとう。
あなたは、私の世界に救いをくれました。

伝える事すらできない、ちっぽけな想いだけれど―――私は幸村君の事が大好きでした。


「……さよ、なら……」


燃える炎を抱き締めて、私は静かに目を閉じた。







全身を苛んでいた痛みが、不意に消えた。
黒く染まっていた視界がじわりと元の色に戻り始め、自らの危機に荒れ狂っていた力がゆっくりと収まっていく。

何が起きたのか、少しも分からなかった。
痛みがどこに消えたのかも、どうして胸の奥に巣食っていた恨みがなくなっているのかも。

深い闇に包まれた場所に座り込んで、ただ呆然と目を見開いて。
俺を引きずり込み損ねた闇と鬼が低い唸りを発しているのを感じながら、手の中の冷たい身体をただ抱きしめていた。


「どう、して……」


何もかもが闇に呑まれ、後は鬼へと成り代わるだけの筈だった。身を蝕む苦しみを感じながら絶望と共にそれを覚悟したのに。
どうして、俺はまだここにいるのだろう。痛みは、恨みは、一体どこへ消えたのか。

そして、どうして手の中の彼女はこんなにも重く、冷たいのだろう。


「……莉那。ねぇ、莉那?」


名前を呼んでも、そっとその背中を撫でても、返事はなく彼女が動く事もない。
その顔を見るのが怖くて、抱きしめた手の力を緩める事ができなかった。その瞳が閉じているのを見て、その唇が呼吸をしていないのを見てしまったら、もうその現実から逃げる事はできないから。

きっと生きている筈だ。今はただ、眠っているだけ。
しばらくこうして抱きしめていて、そうすればすぐに目を覚まして、いつもと同じ声で俺の名前を呼んでくれる筈だから。

だから―――……。


「目をっ……!」


どうか、目を開けて。

喉の奥で声がつまって、言葉にならない。
心を埋める悲しい予感だけを噛みしめて、溢れだす涙を見つめる事しかできなかった。



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