ひどく近い、けれど決して手の届かない場所で、確かな実体を持った細い身体が崩れ落ちる。
その光景がまるでスローモーションのようにはっきりと見えて、その瞬間世界が静かに揺れた。周囲を巡っていた蒼い力が竜巻のように巻き上がり、きらきらと蒼い欠片が降り注ぐ。
大きな手が勢いよく振り上げられ、それを見上げた少女の瞳が苦しげに歪む。辺り一面はその身体から流れ出した血で赤く染まり、漆黒の世界にひどい不和をもたらしていた。
その手が彼女に振り下ろされれば、あの儚い命は簡単に散ってしまう。
この想いも、あの時の約束も、何もかもが失われてしまう。
巻き上がった力の反動が、今まで以上の激痛を生んだ。けれどそれは、まるで違う世界で起きているかのように遠い。
考えるよりも早く、喉の奥から絶叫が迸る。握りしめた枷の欠片の存在を感じながら力を弾けさせれば、蒼い霧が佇立する鬼を横殴りに吹き飛ばした。
低い唸りが掻き消え、鬼は濃霧のような闇の中へ潜るようにして姿を隠した。乱雑に放たれた力が行き場を失って辺りを薙ぎ、突風となって吹き荒れる。
赤く染まった右側の視界が激しくぶれて、痛みと共に記憶の断片がふわりと消えていった。それに構う事無く、増した痛みでうまく動かない身体を叱咤して赤い血だまりの中心へと走る。
「莉那、莉那っ!」
繰り返し名前を呼べば、血に汚れながらも見開かれたままの瞳が、静かに俺を映し出した。
その傍らに膝をついて力を失った身体をそっと抱き起こす。ここが人間に触れられる異界で良かったと、そんな事を思った。
手の中のぬくもりが、じわりじわりと零れ落ちた。それと同時に暖かい筈のその身体が、ずっしりと重みを増して冷たくなっていく。
それを止める術は俺には無くて、少しずつ命が失われているにも関わらず、いつもと同じように微笑む彼女をただ抱きしめる事しかできなかった。
「どうして、こんなっ……!」
どうして、何もかもが奪われるのだろう。
それを失う事を望んだ事なんて一度も無いのに、いつだって大切なものが手の中から零れ落ちていく。
手の届かない所へ消え去って、その記憶だけを俺の中に残して。
喪失感だけが俺の心の奥底に巣食って、嘆きを生み出した。
か細い声が、微かに耳に届く。
しっかりと抱きしめていた身体を離してその顔を見やれば、薄く微笑んだ唇がゆっくりと動いた。
「……ゆきむ、らくん……あえて、よか、た……」
「俺の為にこんな所まで来て……そんな事しても、俺はもうっ……!」
彼女の血とは別の赤で染まる視界に、黒い闇が広がり始めていた。それが俺の全てを呑みこめば、もう逃げ場はない。
時折、自分のものではないかのように手が震える。憎き人間が目の前にいるのだから壊してしまえと、心の中で声が響いた。
それを抑えつけて、押し殺して、膨れ上がる痛みを悟られないように彼女の頬を撫でる。そこは既に冷たくなっていて、鬼化による激痛とは別の痛みが胸の奥でうずいた。
「……あの、ね。わたし、ね……しゅだん、を……」
ごぽりというくぐもった音が響いて、彼女の唇から赤い液体が吐き出される。
苦しげに歪んだ表情の中で、強い光を宿していた瞳が虚ろのように色を失っていくのが分かった。
命が、零れて。
流れて、消えてしまう。
俺の全身を濡らしても尚流れる事をやめない赤い色が、俺の視界を完全に染めた。
抗えない衝動と激痛に絶叫を上げて、それでも手の中の小さな命を失わないようのその身体を力の限り抱きしめた。
闇の中から響いていた唸り声が、耳障りな哄笑に変わる。
最後の坂を転がり始めた俺の運命を嘲笑うかのように、それは消えない響きを持って俺の心を犯した。
何もかも分からなくなっていく。自分が今どこにいるのか、何をしているのか、それさえ分からない。何一つこの手の中には残らない。遠く離れた場所へ全てが奪われる。
絶叫の合間に響くか細い悲鳴のような声が、誰かの名前を呼んでいるような気がした。
*
和室の中で難しげな顔をする真田の様子を窺っていた赤也が、不意に鋭い視線を襖に向けた。宝石のような瞳が輝きを増して、時折赤い色を混ぜながらその形を剣呑に歪ませる。
それに気づいた真田が問いかけの言葉を発する前に、襖の隙間から黒い闇が躍り出た。
「なっ!?」
「危ないっ!」
鋭い一撃は迷わず場の支配者である真田を狙う。赤也の声にどうにか反応し、和室の畳の上を滑るようにして闇を避けた。
目標を失った先端が床に突き刺さり、一瞬おいて赤也の力がそれを切り裂く。ぐにゃりと力を失った闇は畳の上でもがいてから動きを止めた。
「何故、七不思議の場の中にっ……!」
「副部長、外にも!」
その言葉の通り、赤也が開け放った襖の向こうには蠢く闇が待ち構えていた。日中の学校にも関わらず、夜以上の質量がそこに満ちている。
舌打ちと共に放たれた赤也の力が鎌鼬を呼び、和室に雪崩れ込もうとしていた闇たちを押し返した。
「てか、部屋の中はまずいっしょ!」
「止むを得ん、一度出るぞ!」
短刀を抜いて鈴の音を響かせれば、辺りに清浄な気が満ちる。その存在を嫌う闇がざわりと蠢いて道を開いた。
その隙間を潜り抜けて、廊下一杯に満ちた闇を蹴散らしながら当てもなく駆け抜ける。
闇は学校中に満ちていて、ひどく攻撃的に真田と赤也を襲う。足を止める事無くそれらを力で弾き、時には力でねじ伏せて道を作った。
「どこ行くんすか!」
「分からぬ! ――七不思議の場に闇は入れぬ筈だった。だが、他の場所も闇に襲われているのだとしたら……」
「……丸井先輩が危ない!」
「俺は仁王の方へ行く。お前は丸井の所へ行け!」
「了解、っと!」
床に沈み込むようにして消えていく赤也を見送って、一度足を止める。周囲は完全に闇に囲まれていて、満足に廊下の先を見る事すらできないほどだった。
短刀を抜かずに片手で掲げ、その柄についた鈴を鳴らす。ちりん、と涼やかな音が響く度に力が満ちていくのが感じられた。
「何が起きているのかは分からぬが……闇がこれほどまでに活性化するとは」
一つ嫌な予感が脳裏を過ぎり、それをすぐに打ち消す。あの幸村がそう易々と鬼に堕ちる筈がない。それに、今はそんな事を考えても無駄だ。
これ程までに闇が活性化すれば、人間達にも異常が出る。異変が深刻化する前に、闇たちを抑え込まなければならなかった。
短刀に両手を添え、ゆっくりと腰まで引き込む。その刃が抜かれてしまわぬように注意を払いながら、勢いよく振り抜いた。
その軌跡を追って目には見えない圧力が放たれ、その先に満ちていた闇を一掃する。
耳障りな悲鳴を上げる闇を睨み付けて、ちりんと鈴を鳴らした。
「かかってこい。俺が全て消し去ってやろう」
*
廊下に群がる闇たちを退けながら、ようやく辿りついた調理準備室の壁をすり抜ける。その瞬間、前の前を鋭い包丁の刃が飛んで思わず息を飲んだ。
準備室の中は台風が通り過ぎている最中の様だった。床一面に大量の物が落ちて、さらには空中を包丁やら鍋やらが飛び回っている。大量の闇に囲まれて泣きそうに顔を歪めた丸井が、でたらめに力を使って調理器具から果ては机までを飛び回らせているのだ。
「丸井先輩!」
「赤也! こいつら一体何なんだよぃ!」
「知るわけないっしょ! こいつらは場の中にも入ってくるんです!」
丸井との間を阻む闇を一掃すれば、赤い頭が転がるようにして駆け寄ってくる。その背後に迫る闇を押し戻して、すぐに準備室を飛び出した。
「どこ行くんだよ……!」
「んな事分かりませんよ! でも、とにかく逃げねーと闇に呑まれちまう!」
いくら打ち払っても、闇はどこかからか湧き出して襲いかかってくる。それに捕まれば、昏い世界へと引きずり込まれることになるだろう。
目指す場所もなく、ただ廊下を駆ける。何故こんな事になってしまったのか分からない以上、どこが安全なのかも分かる筈がなかった。
「とりあえず、副部長と合流して、それからっ……!」
「赤也、前!」
丸井の絶叫に近い声で、慌てて前を見やる。一瞬目を離した隙に、先程までの闇とは明らかに様子の違うものが廊下を埋め尽くしていた。
闇よりも濃く、深く、そして幽霊でさえ寒気を覚える様な深い黒。それは廊下を塞いで、ぐにゃりと蠢いていた。
「ちっ、次から次へとなんだってんだ!」
「廊下が駄目なら外から行くぜぃ!」
窓を通り抜けて校舎から逃れる丸井を追って、廊下を埋める黒に背を向けた。
あんなものが学校中にいるのだとしたら、最早現世には安全な場所などない。七不思議たちが穏やかに暮らせる場所は、失われてしまったのだ。
そんな絶望的な感情が湧き起こり、唸り声となって喉の奥から漏れた。心配そうにこちらを見やる丸井から視線を逸らして、小さな声でちくしょうと呟く。
こういう時、涼しげに笑って道を示してくれる柳は、どこにいるのかも分からない。今は丸井と二人で、どうにかして闇から逃れなくてはならなかった。
飛び出した窓の外にはいつもと同じような青空が広がっていた。それを睨み付けるように見上げて、低く呟く。
「ぜってー逃げ切ってやるからなっ……!」
*
ゆらゆらと世界が揺れている。漆黒の空間が低い唸りと何かの吠える様な声で埋め尽くされていた。
それを全身で感じながら目を閉ざしていた柳が、唐突に身じろいで低い声を放つ。
「……捉えた」
「本当ですか!?」
「ああ。だが、これは……」
何の前触れもなく始まった異界の異常。それを感じてからすぐさま闇を使役し、できる限り広く闇を広げて辺りを探らせた。
そして、絶叫のような咆哮が響き始めた頃、ようやく闇がそれを見つけたのだ。
「これは、まずいな。精市はもう―――」
「……急ぎましょう!」
鬼に出会わないよう注意しながら、闇が示す場所へと向かう。その道中、闇が見せたものを柳生に告げた。
闇が伝えたのは一瞬の情景。
人間の少女を抱きかかえ、力を暴走させながら絶叫する精市の姿。
―――その存在は、既に鬼に近づき始めていた。
何が起きたのか正確な事は分からないが、おそらくあの少女は鬼に襲われたのだ。そして傷ついた所を彼が見つけ、鬼を退けたのだろう。
最後にそんな予想を付け加えれば、柳生が悲痛な面持ちで頷いた。
「では、莉那さんは……」
「はっきりとは分からないが、精市がこれだけ荒れ狂っているのだからかなりの大怪我をしている可能性が高い。何にせよ、このまま精市が鬼化すればあの人間も俺たちも引きずり込まれることになる」
「私たちは間に合わなかったのですね……」
「精市が鬼化する前に辿りつく事ができたら、お前はあの人間を連れて現世へ戻れ。異界でこれ程の異常が出ている以上現世にも何らかの影響はあるだろうが、同じ空間にいるよりはましだろう」
「柳君はどうするのです?」
胡乱げに問い返す瞳を見返して、口元に笑みを浮かべて見せた。
「俺は精市を助ける為に努力しよう。どうしても助けられないと思えば、お前が開いた道を通って俺も現世に戻るさ」
「……分かりました。ではそのようにします」
あまり信じてはいなさそうな声で柳生がそう告げる。その声と同時に辺りの闇の質が一変した。
どろりと濃い霧のような、そんな質感を持った闇。そしてそれに混じる感じ慣れた蒼の力の気配。
時折周囲に蒼い欠片が舞い、ゆらりゆらりと幻想的に揺れていた。それを潜り抜けてひたすらに蒼が生まれる場所を目指す。
そこにいるであろう彼らの無事を願えば、それを嘲笑うかのように低い唸りが辺りに響いた。