右足を前に出して、左足を前に出して。はっきりと歩くという動作を自覚しながら、行くあてもない闇の中を進む。
そうして自分の意識をはっきりと保たないと、また闇に呑まれてしまいそうだった。

どれほど足を進めたのか、どれぐらいの時間が経ったのか、何一つ分からない。ただ彼の事を願いながら、前だけを見て歩いていた私の耳に、低い唸り声のようなものが聞こえてきた。
いんいんと音を籠らせながら響くその唸りは、地を這うようにして私の周囲を巡る。その不気味さに息を飲み、思わず進めていた足を引いた。


「……なに……?」


悲痛な声。苦悶の声。心の奥底に訴えかけて、私の感情を直接握りしめて揺さぶるような、そんな声。
どこまでも響いていくそれは、私が進もうとしていた闇の奥から聞こえているようだった。


「……幸村君……?」


彼とは似ても似つかない声だとは分かっていたけれど、ほんの僅かな可能性を信じて声をかけた。けれど、期待していたような返事はなく、そして地の底から響くような唸りが止まる事もない。
全身にじっとりと冷や汗をかきながら、そっと一歩踏み出した。もう一度彼の名前を呼んで、いつもの冷たい声が聞こえないかと耳を澄ませる。けれど、その期待も空振りに終わり、進む度に唸り声が大きくなるばかりだった。

頭の中に唸りが満ちて、その悲しみと苦しみが私の心を染める。それは私の感情ではないと分かっているのに、引きずられる心が痛みを訴えた。
苦しい、悲しい、痛い、辛い、暗い、寒い、寂しい、怖い、妬ましい、嫉ましい、僻ましい、憎い。
ただの感情と一言で片づけるには色濃すぎる、あまりにも強い情の塊。それらが唸りに乗って闇の中に広がっていく。


「……誰……?」


誰と尋ねるより、何と問うべきかもしれないという事に気づいたのは、その唸りが唐突に消え去った瞬間だった。先程まで当然の如く鎮座していた沈黙が、今は耳に痛い。
あんなにも響いていた唸りが一瞬で消えると、聞こえていた時よりも不気味さが増したようだった。

どれだけ目を凝らしても、目の前に広がるのはどこまでも深い闇だ。時折うねるように揺れて、また全てを覆い隠す漆黒の闇。
その奥に何がいるのか、私には分からない。その先に彼がいるのかどうかも、分かる筈がない。
今の私に許されているのは、ただ前に進んで彼を探す事だけだ。


「……幸村、君……」


ぽつりと名前を呼んで、止まっていた足をゆっくりと進める。淀む闇に一歩踏み入って、その中に包まれた。しっとりと冷たい感触を感じながら、さらにもう一歩。
やけに深くて、まるで霧のような闇だと、そんな事を思った瞬間だった。右手に握りしめていた枷の欠片が、手が凍りつきそうな程の冷気を放つ。
思わず身体を強張らせて足を止めれば、目の前を何かが横切った。


「……え……」


見上げる程に大きな、影。
その周囲に唸りを生み出す存在。

硬直した身体で闇に抱かれながらそれを見上げれば、低い唸りと共にそれが私の前に佇立した。


彼が堕ちかけているものは、一体なんだったか。
異界に生きる堕ちた存在は、なんと呼ばれていたか。


その答えが唇から零れ、同時にそれが大きな両手を振り上げる。呆然とそれを見上げるしかない私に向かって、その手が振り下ろされた。







激しい痛みが全身を巡り、視界が白と黒の二色に染まる。針を頭蓋骨に差し入れられているかのような頭痛は次第にひどくなるばかりで、どれだけ地を這いずってのた打ち回っても逃れる事はできない。
その痛みと自分が変質していく感覚の中で、少しずつ世界が溶け出して消えていく。自分の力でそれを抑え込もうとすれば、それが更なる痛みを生み出した。
痛みが俺を壊し、破壊を止めようと力を使えば、それが痛みを増長する。俺が全てを諦めるまで続く痛みの連鎖は、この昏いだけの空間で俺を捕えて離さない。

苦しみのあまり絶叫を上げて、それに引きずられるかのように記憶が脳から溢れだした。何一つ失いたくなどないそれらが、鳥の羽が飛び上がるようにふわりとどこかへ消えていく。
手を伸ばして追いかける事もできず、ただそれを見送るしかない俺は、既に穴だらけの哀れな存在に成り果てていた。
何が消えたのだろう。何を失ったのだろう。激しい痛みと苦しみは、それを確認する暇さえ許してはくれなかった。

ちかちかと瞬く様に黒と白に染まる視界が、周囲を巡る俺の力の具現を時折映し出した。
この存在を引きずり込もうと揺らめく闇を弾きながら、きらきらと蒼い輝きを宿して力が揺れる。その輝きが、俺がまだ自我を保っていることを証明してくれていた。
その輝きに縋って、苦しみが増すと分かっていながら俺は力を使い続けるしかなかった。


「あ、ぁぁあぁぁぁああああぁぁぁぁああ!」


声にならない、言葉にならない、ただ音だけの絶叫。
それを吐き出しながら、七転八倒してもがき苦しむ俺の耳に、闇の底から囁きが響く。低い唸りのようなそれは、闇の世界に堕ちかけた俺を深い甘言で誘った。

全てを諦めて、抵抗をやめて、ただ闇を受け入れて生まれ変わる。ただそれだけでこの永遠と続く果てしない苦しみから解放される。そして、お前は新たなる力を手に入れる事ができる。望むのなら、お前を苦しめた憎き存在への復讐も叶う。何故、抵抗する。何故、拒む。何を恐れる事がある。お前の本質は最早―――……。


「やめろっ……………!」


聞きたくない、そんな言葉はいらない。鬼になどなりたくはない。この苦しみが永遠に続くだけなのだとしても、それでも別の存在になりたくなどない。全てを失うのはなによりも怖い。あの気持ちを、あの想いを、忘れてしまう事などできない。


「俺は、鬼になんかっ……!」


何を躊躇う。何を厭う。何がお前をそんなにも縛る。そんなものは消してしまえ。心惹かれるものを失ってしまえば、全てを忘れる事が出来る。逃れ得ぬ運命を、ただ受け入れろ―――。



咲き誇る花。噎せ返る香り。
その向こう側で笑う一人の人間。
交わした儚い約束と、吐き出したずるい嘘。
俺を縛ったか細い糸と、その先に繋がる―――。



その姿が像を結び、次いで自分の放った否定の言葉を思い出す。枷の糸を切る為に紡いだ言葉は、鋭い棘のように心に突き刺さっていた。
手の中に握りしめたままだった枷の欠片が、不意に輝きを発した。その光はかつての枷と同じようにか細い糸で、昏い闇の向こう側へと伸びていた。
すべての痛みを忘れる程に呆然とそれを見つめれば、細い糸はゆらりと揺れて闇に呑まれて消えていった。まるで幻だったかのように、後には何も残らない。
それが何を意味するのか、考える事すらできなかった。再び湧き起こる苦しみを他人事のように感じながら、きつく手を握りしめる。

まさかという否定に近い感情が湧き起こり、次いで周囲の闇の歓喜の声を聞いた。
蒼い輝きに弾かれながら鬼に堕ちかけた俺を呑みこもうとする闇たちが、ひどく耳障りな声を上げている。その響きはまだなりかけの俺にも、はっきりと喜びを伝えてきた。


「……どうし、て……」


この嫌な予想が間違っていないのなら、きっと彼女がこの空間のどこかにいる。そして、闇たちの声を信じるのなら、その身に危険が迫っている。

荒れ狂う痛みで身体は殆ど動かない筈だった。けれど、彼女の元にと願うだけで、不思議な程に身体が軽くなる。
自らの意思で力を制御し、激しい痛みを感じながらそれで闇を薙ぎ払う。低い唸りが俺を捕えようとその響きを増し、けれど半ば暴走しかけている力を叩きつければそれすらも打ち払う事が出来た。


闇に呑まれた細い糸を思い出しながら、ひどく軽い身体で闇の隙間を潜り抜けた。
じわり、と右側の視界が赤く染まり、力の行使による鬼化が進み始めた事を告げた。それを無視して、糸の残滓を追う事だけに集中する。

彼女を助ける事が出来るなら、この身がどうなろうとも構わない。
こんな所に彼女を引きずり込んでしまったのは、俺の責任なのだから。


行く手を阻む闇を退け、空白だらけの記憶を抱えて。はっきりと残る彼女との思い出だけを支えにして、痛みに犯された身体を動かした。
濃い霧のような闇のなかに入り込み、そこに存在する低い唸りの元を全身で感じ取った。その大きさに危機感を抱いて足を止め、その存在がどこにいるのか見極めようと辺りを見回して。


そして、俺はそれを見た。







咄嗟に覚悟したものより、衝撃はとても小さかった。大きな腕でがくんと全身を揺さぶられ、同時に走った腹部の違和感に気持ち悪さを抱く。
視界の殆どを埋め尽くす大きな存在を見上げながらお腹に手を当てれば、そこには大きな手があった。


「……ぁ、……」


じわり、と熱いものが私の中から溶け出していく。喉の奥から錆びた匂いのする液体が湧き起こり、薄く開いた唇から溢れ出した。
不思議な事に痛みは少しも感じなかった。鬼の大きな手が、お腹を貫通して背中から突き出しているというのに、そこにあるのは違和感だけだ。

鬼の手が無造作に引かれ、表現しがたい音を立てて私のお腹にぽっかりと穴が開く。そこから流れる赤い血が、黒い世界の中ではっきりと見えた。
足から力が抜けて、膝が折れる。座り込むようにしてその場に倒れ、意味もなく腹部の穴に手を当てた。


「……だ、め。ゆきむ、らく……」


きっとこのままでは私は死んでしまう。こんな大怪我をして生きていられるはずがない。
けれど、今死ぬ訳にはいかないのだ。何があっても、彼を救う前にこの命を失う訳にはいかない。死ぬのは彼の傍に辿りついて、彼を救ってからだ。

そう思って立ち上がろうとするのに、どうしても身体に力が入らない。どくどくと溢れだす沢山の血が、辺り一面を赤く染め上げた。
大きな鬼が咆哮を上げる。唸りよりも強いそれが、私に鬼の喜びを伝えた。そして、咆哮のままに鬼がもう一度手を振り上げる。
それが私というちっぽけな存在を簡単に蹴散らすのはよく分かっていて、だからどうにかしてそれから逃れようと動かない身体でもがいて、その拍子にどろりとぬるい自分の血で無様に滑った。

振り上げられた手が、先程以上の勢いを持って振り下ろされる。
諦めきれずに意味もなくもがきながらそれを見つめて、そして冷たい蒼を思い出した。枷の欠片を握りしめ、近づいてくる死を睨みつけて―――。


「莉那っ!」


絶叫。

赤く染まった視界に、冷たい蒼が踊った。




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