放課後の図書室には煌々と明かりが灯り、柳を探しに来た時に感じた薄暗さは少しも感じられなかった。
貸出業務を行っている図書委員や、本を借りに来た生徒の姿がちらほらと散らばる室内を、なるべく音を立てないようにそっと歩く。

本棚に架けられたプレートを見ながら植物関係の本が並ぶ棚を探し、かなり奥の方に入り込んでからそれを見つけだした。
植物図鑑、植物の育て方、植物の見分け方、植物の名前―――その他数えきれないくらいみっちりと棚に詰まった本を一つ一つ確認し、下から二段目の棚でようやく花言葉の本を見つける事が出来た。
そっとそれを抜き取って、五十音順に並べられたページを飛ばし飛ばしに捲る。


「……シオン……」


青と紫の細い花弁が特徴の花。
屋上で見た花のイメージを思い出しながら、ようやくサ行に辿りついた分厚い本を一度抱え直した。その言葉を見逃す事が無いよう慎重にページを確認して、さらにページを進めていく。


花言葉を探してみると良いと、わざわざ彼が告げた意味。
もしかしたら、何の意味もない彼の気まぐれだったのかもしれない。
彼はもう忘れてしまっているような、些細な出来事なのかもしれない。

そうだとしても別に構わない。知りたいと願ったのは私なのだから。


ようやく目的のページを見つけ、はやる心を押さえてまずは花の説明書きを読んだ。


『キク科の多年草。学名 はAster tataricus(中央アジアのシオン属)。 Aster(アスター)は、その花のつき方の様子に由来し、ギリシャ語の「aster(星)」からきている。原産は東アジア。また、孔雀草、反魂草と類似しており間違われることが多い。その花言葉は―――』


その単語が意味のない文字として視界に入り込み、一瞬おいてから脳がそれを理解する。


「……あなたを、忘れない……」


ぽつりと呟いた声は、誰にも届かずに図書室の床に吸い込まれて消えた。
そのページを開いて、目だけが何度も何度も同じ言葉をなぞる。ぐるぐるとその言葉が頭の中を過ぎって、自分でも理解できない感情が胸の奥から湧き起こった。


忘れない事に、一体何の意味があるのだろう。

二度と会えないと分かっているのなら、いっそのこと忘れてしまった方が楽なのに。
二度と手に入らないと分かっているのなら、最初からなかったことにすればいいのに。

私の前にその道があったように、彼の前にもまた同じ選択肢があった筈だ。
例え鬼化が避けられない運命で、彼はそれに呑みこまれていくだけなのだとしても、最後まで私を覚えて苦しむ必要はどこにもない。

忘れて、しまえばいい。
記憶の中から私を消して、最初から人と寄り添えない哀れな少女の事など忘れて、ただ決まっていた定めに従うだけだと自分に言い聞かせて。
そうするだけでもいくらかの苦しみを背負わずに済んだ筈なのに。


「……どうして、わざわざこんな言葉を……」


別れを覚悟した上でこの言葉を託した彼は、自分の全てを失うその時まで何もかもを抱えていくつもりだったのだろうか。
その身に降りかかるだろう苦しみさえ、全て一人で背負い込んで。
想いを託した花だけを私に伝えて、それ以上を望む事すらせずに。


「……私も……」


じわりと浮かんだ涙が頬を滑る。それを感じながら本を抱きしめれば、ずきりと胸が強く痛んだ。
子供のように身体を丸めて、溢れる涙を床に零しながら、ただ彼を思う。


「……私も、忘れたりしないっ……」


例え、その道が私の幸せなのだとしても。
例え、誰がその道を私に示したとしても。

何があっても、忘れたりしない。
いつまでも、彼の事を想い続けるから。

だから、と呻き声に近い呟きでそれを願った。
思い返せば、枷が外れて彼を失ってから、心の底からそれを願うのは初めてだった。
何もかもが唐突に過ぎ去って、私の心がそれに追いつく前に次々と形を変えて、それを願う暇さえ私にはなかったから。


「……お願い、幸村君っ……」


消えないで。どこかに行ってしまわないで。これまでのように傍にいて。その分かりにくい優しさを、もっと理解できるようにするから。一緒にいられる幸せを、もっと大切にするから。だって、私はあなたに、まだ何も伝えられていない。こんなにも、伝えたい気持ちがあるのに。


「……還って、きてっ……!」







薄暗い図書室の一角。人が近づかないその空間に、悲痛な叫び声が響く。
その声が空気を揺らし、揺らぎがうねりを生んだ。見えない波動が辺りを見たし、それに気づく事が出来ない少女に近づいていく。
そのうねりの狭間から、不意に闇が湧き立った。何かを探すかのように彷徨うそれが、少女の背後にある本棚にその先端を伸ばす。ずるずると伸びるその先にあるのは、漆黒の背表紙を覗かせている一冊の本だ。

―――少女は、気づかない。

闇が本に絡みつき、ずるりと音を立てて本を引いた。みっちりと詰まっていた本棚から、少しずつその本が引き出される。ずっずっと規則的な音と共に、本の背表紙が棚から宙へと突き出していく。

―――少女は、気づかない。

突き出した本がさらに闇に引かれ、本がその殆どを空中に浮かばせる。闇がそれを包み込み、一瞬だけ完全に宙を浮遊させてから、ふいにそれを解放した。重力に従って、本は床へと落ちていく。そして、床に叩きつけられた本がばさりという乾いた音を立てた。

―――ようやく、少女は気づく。

のろのろと振り返った少女は周囲に満ちる闇には気づかず、床に落ちた本を不思議そうに見つめてゆっくりと手を伸ばした。
それを見届けたかのように、本を落としたことで役目を終えた闇たちが、本棚に空いた一冊分の本の隙間へ殺到した。穴に潜り込むかのように全体を戦慄かせながら、その裏側へと消えていく。
本を拾い上げた少女は本棚の隙間を見やってから、おもむろに本を開いた。ぱらぱらと気のない動きでページをめくり、ある所で唐突にその動きを止める。そこに綴られた文字を見つめて、少女の瞳が見開かれた。


―――そして、少女はそれを知った。


しばらく本を眺めてから、少女は唐突に頬を綻ばせる。笑み、と一言で表すにはひどく悲しげなその表情は一瞬で消え去り、次いで何かを決意したかのような真剣な顔を浮かべた。
もう一度本を読み返してから元あった場所に戻し、それまで抱えていた分厚い花言葉の本も棚に返す。
頬に残っていた涙の跡を強く拭い、少女は薄暗いその場所を後にしたのだった。







いつもと同じ薄暗い廊下に、今までとは違う決意を持って、私は立っていた。
何も見えない、何も感じない。だから、本当にここに仁王がいるのかどうか定かではない。けれど、あの別れ際に仁王はここにいると言ったのだ。


「……仁王……幸村君を救う希望を、見つけたよ……」


静かな声でそう告げて、ポケットの中の枷の欠片を握りしめた。
それは今、氷でも握っているかのようにひどく冷たい。


「……だから、私を異界に行かせて……幸村君を、助けるから……」


返事はない。もしかしたら私に何かを言っているかもしれないけれど、私には聞こえない。無力な私にできるのは、仁王を信じてただ待つだけだ。

どれぐらい時間が経ったのかは分からなかった。数秒かもしれないし、数時間かもしれない。
時間の感覚は私の中から失われていて、唐突に目の前の空間が歪む現象に対しても何の驚きも浮かんでは来なかった。
その入り口を見る事ができるのかという不安はあったけれど、どうやら杞憂に終わったようだ。

黒々とした不気味な光を撒き散らして、その裂け目はそこに存在していた。


「……その先が、異界なんだね……」


返事がないとは分かっていたけれど、自分に言い聞かせる意味も込めてそう呟いた。
欠片の冷たさを感じながら一歩踏み出し、その裂け目に近づく。辺りの空気が裂け目に吸い込まれるように流れているのが分かった。

一度背後を振り向いて、どこかにいるだろう仁王の姿を探す。適当な想像で仁王がいそうな場所に向かって手を振った。


「……仁王、ありがとう……」


その余韻が消える前に異質な裂け目に向き直り、覚悟を決めてそこに足を踏み入れる。
何かがまとわりつくような感触が広がって、次の瞬間私は裂け目に呑まれ、視界が漆黒に染まった。

私が、溶けていく。黒い光に呑まれて、消えていく。
その異様な感触に全身を包み込まれて、私は耐え切れずに絶叫を上げる。

それすらも呑みこんでしまう貪欲な光が、その世界の全てだった。







救う方法を見つけたと告げた少女が裂け目に呑まれたのを見て、裂け目を無理矢理開いていた力を緩めた。それと同時に全身の力までが抜けて、ずるずるとその場に座り込む羽目になる。
その体勢のまま少女が消えた廊下の片隅を見やり、そこに重なっていた異界の気配が完全に消えている事を確認した。

全身全霊を込めて道を開く事に集中した身体は、指先を動かす事さえできない程に疲弊していた。気を抜けばすぐに意識さえも失う事になるだろう。
最も、この程度で済むとは思っていなかったから、むしろそちらの方が意外だった。

本来、異界への道を開く力を持っているのは柳生で、その柳生に成り代わらずに力を行使することはできない。
動けなくなろうが、霞のように存在が薄まろうが、どうやってでも道を開く覚悟はあったけれど、そこまでひどい状態にならずに済んだのはその柳生のお陰だった。

廊下と重なった異界の側に件の柳生の気配を感じた。それを頼りにして道を繋げば、導があるだけ力を使わずに道を繋ぐことができた。
柳と共にどこかの世界へ消えた柳生が、都合よく異界にいたのだろう。その幸運が無ければ、座り込むどころの疲労では済まなかった筈だ。


「幸村を救う希望、か」


異界へ消えた人間が言った言葉を思い出し、ぽつりと呟く。
やけに頑なな決意を秘めた顔をしていた。だからこそ、手段を見つけたのが真実だろうと信じる事ができたけれども、果たしてその手段とは一体どんなものなのか。


「考えても無駄、じゃな」


最早その存在は異界の向こう側だ。問う事はできない。後はその手段が成功して、幸村がこちら側へと還ってくる事を祈るだけだ。
異界に柳生と柳がいるのなら、何かしらの助けにもなるだろう。ここでじりじりと心配だけを募らせても仕方がない。


「後は頼んだぞー、柳生さん」


その言葉を最後に、急速に意識が薄れていく。使い果たした力の分だけ、眠りとは違ううつつの時間を過ごす事になるだろう。
目を覚ました時に幸村がいればいいと、そんな事を考えたのを最後に仁王の意識は溶けていった。




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