耳の奥で彼の声が木霊する。
『君は悪くない。
悲しまなくても良いし、泣かなくても良い。』
冷たい瞳にどこか穏やかな色を混ぜて、彼はその言葉を繰り返した。
断片的な願いに近いその意味は、ちっとも分からなくて。
けれど、本当は頭の片隅でその意味を知っていた。
それを認めるのが嫌で。
真実を見るのが怖くて。
分からないふりをして、知らないふりをした。
そうすれば、あの時だけは無邪気に笑う事ができたから。
見えないふりをしていれば、それが真実になってくれるような気がしたから。
本当に、ただそれだけだった。
*
この学校にある七不思議の内、私が知っているのは六個だけ。
図書室の柳、和室の真田、階段の柳生と仁王、調理準備室の丸井、屋上のジャッカル。
後の一つは場所すら知らないし、柳に幸村君の事を聞きに行く勇気はなかった。
とりあえず、距離的に一番近い階段を目指す。途中で柳生と話をしていた教室を覗いたけれど、そこにいつもの影はなかった。
廊下に誰か漂っていないか注意しながら階段に向かう。けれど、そこに七不思議の姿は見つけられなかった。
すぐにきびすを返して、次は和室へ。騒々しい音を立てながら板間の上を走り、襖を少しだけ開く。
きっとここには真田がいるだろうと思ったのに、予想に反してその姿はなかった。
人気のない薄暗い和室に、井草の香りが満ちているだけ。それに違和感を覚えながら、仕方なく襖を閉ざす。
その瞬間、ちりんと鈴の音が響いたような気がした。
「……真田……?」
襖越しに名前を呟き、耳を澄ませて返事を待つ。
けれど、返ってくるのは耳に痛いほどの沈黙だけだ。
中に真田がいるのなら、必ず何かしらの言葉を返してくるだろう。
「……屋上と、準備室……」
自分を励ます為に残りの場所を口に出して、胸の奥から染み出してくる嫌な予感を振り払う。
何が起こっているのかはさっぱりわからない。けれど、真田がここにいないというのは何かがおかしいような気がしてならなかった。
板間を軋ませながら廊下に戻り、屋上を目指す。
そこにジャッカルがいなければ、次は調理準備室だ。そして、丸井もいなければ――――。
その時は、図書室の柳に会うしかない。
*
徐々に登校し始めた生徒たちのざわめきに紛れて、私は図書室の扉の前に立ち尽くしていた。
結局、屋上にも調理準備室にも七不思議の姿はなかった。それらの場所に向かう途中の廊下でも、誰にも遭遇していない。
彼に何かがあって、全員がどこか―――例えば、最後の七不思議の所―――に集まっているのかもしれないとも思ったけれど、どうしても胸騒ぎが収まらなかった。
微かに震える手で、ゆっくりと図書室の扉を開く。誰もいない室内は照明もついておらず、以前来た時よりも薄暗い。
不気味さを感じながら一歩踏み込み、手探りで壁際の照明を探す。カーテンを閉め切った室内の空気は少し澱んでいるようだった。
「……柳、いる……?」
照明のスイッチを押しながら広い図書室に向かって問いかける。一瞬遅れてついた照明が、室内を照らしだした。
そこに広がったのは何の変哲もない普通の図書室だ。ずらりと並んだ書架に納まる本と、等間隔に並んだ机。
敷き詰められた絨毯で足音が掻き消える。自分が歩いているのかさえ分からなくなるほど、そこは無音だった。
机の間をすり抜け、書架を数えながら少しずつ奥へと進む。
あの時と同じ、第13書架を真っ直ぐに目指した。
「……柳……?」
どうしてか声が震えた。自分でも顔が引き攣っているのが分かる。
先を急ごうとする心に抗って、足が重い。のろのろと鈍重に進む自分が、出来損ないの人形にでもなったかのような錯覚を覚えた。
視線だけで数えた書架の数が、ようやく13になった。
みっちりと分厚い本が詰まったそこに隙間はない。辺りを何回か見回しても、柳らしき影はなかった。
本棚を見つめて、一つ息を吐く。伸ばそうとした手が震えていることに気づいて、一度それを握りしめた。
ここで襲いかかってきた闇が脳裏を過ぎり、次いで最後に見た彼の顔を思い出した。
昇降口まで私を送り、彼はそこからずっとこちらを見ていた。何度か振り返って、その度に彼の瞳と目があったのを覚えている。
いつもと同じ、冷たい目。
いつもと同じ、蒼い色。
その蒼が、私を奮い立たせてくれる。
まだかすかに震える手を伸ばして、本の背表紙に触れた。心臓が早鐘のように打ち、背中に冷たい汗が伝う。
かたん、と小さな音と共に本を一冊抜いた。ぎっしりと規則的に詰まった本棚に、ぽっかりと空いた隙間。
その隙間から闇が飛び出してくるような気がして、思わず身を引いた。
けれど、隙間はただの隙間だった。そこから闇が出てくることも、柳の黒い瞳が覗くこともない。
ほっと胸を撫で下ろし、それと同時にここには柳がいないという事実を認めざるを得なくなった。
隠れているかもしれないという淡い期待が微かに残ったけれど、ここまでしたのに何の反応もないというのはおかしい。
どうして七不思議たちまでいなくなってしまったのだろう。やはり、彼の事でどこかに集まっているのかもしれない。
探していない他の場所を全て探せば、誰かに会う事ができるだろうか。
本棚に本を戻しながら、そんな事を考える。
はっきりしない思考のままふらふらと扉に向かって歩きだし、そこでふと重大な事に気が付いた。
元々、私には幽霊を見る力などなかった。
彼と出会って、七不思議たちを見つけて、そうしていくうちにそれが当たり前だと思っていたけれど、それはあくまで非日常でしかない。
ありえない存在を私がこんなにも許容する事ができたのは、私もまたこの世界からはみ出しかけていたからだ。
普通の人間は幽霊を恐れ、自分に危害を加えられると考えるだろう。その恐怖心ゆえに、学校の七不思議という伝説がまことしやかに伝えられるのだ。
自分の居場所をこの世界に見つけることができなかった私が、別の世界に縋ってでも誰かと友達になりたかった。
ただそれだけの話。
あんなにも唐突だった始まり。
そして、終わりだけが唐突ではないという保証はない。
「……見えなくなった、の……?」
意味もなく自分の両手を見つめて、ぽつりと呟いた。
こんなにも探したのに七不思議が一人も見つけられない理由。
それは七不思議たちがいないからではなく、私が見る力を失ってしまったからだとしたら。
どうして見えていたのかが分からない。
そして、どうして見えなくなったのかもわからない。
見えなくなってしまったのだという確証がある訳ではないけれど、どうしても胸の奥のざわめきが消えない。
何かが起きているような胸騒ぎと胃の底から湧き上がる気持ちの悪さ。
それをぐっと飲み下して、止まってしまっていた足を一歩踏み出す。
「……探さ、なきゃ……」
本当に見えなくなってしまったと自分が納得できるまで、その事実を認める事はできない。
もしも本当に見えなくなってしまったのだとしたら、私にはそれを覆す力はない。
見えなくなるという事は、七不思議たちと二度と会えないという事。
さらに言うなら、彼とも二度と会えないという事だ。
じわりと湧きあがる嫌な予感をひたすら否定しながら、私は薄暗い図書室を後にした。