白い月の光が照らし出す廊下に、廊下の至る所から染み出した黒い闇が蠢いていた。昨日までは意味のないざわめきを生みだすだけだったそれは、今は明らかに歓喜の声を上げている。
闇の奥底に潜む何かが、闇に引きずり込まれた存在を知って喜んでいるのだろう。


相変わらず七不思議の場には入ってこられない闇たちが、その周囲をぐるりと取り囲んで不気味に揺らめく。
金色の瞳でそれをねめつけて、仁王が鋭く舌を打った。
ここに入ってこられないのは分かっているが、周りを囲まれているという事にあまりいい気はしない。

時折、気まぐれに力で闇を弾き飛ばせば、ほんの少しの間だけ闇たちは動きを止めた。
けれど、その沈黙は本当に一瞬で、すぐに更なる勢いで辺り一面を埋め尽くす。


「面倒じゃな。夜の散歩にも行けん」


低く呟いて、投げやりにもう一度手を振りかざす。意味もなくこんな事をする自分は、きっと苛立っているのだろう。

対の七不思議として、いつだってその存在を感じていた柳生は、今この世界にはいない。
怪異を起こして無理矢理呼べばこちらへ戻ってくるかもしれないが、そんな事をすれば口うるさく小言を言われるに違いない。

当たり前のように存在していた半身がいないというのはひどい違和感があった。
その気持ちの悪さと、何の相談もせずに危険に飛び込んでいった半身の身勝手な行動のせいで、苛立ちが収まらない。


「……そもそも、一声かけていく考えがなんでないんじゃ。しかもこの姿のままいろじゃと? その伝言すら真田に預けるとはどういう事じゃ」


ぶつぶつと苛立ちを呟いて、八つ当たりのように闇を打ち払う。
剣呑な光を宿した瞳は完全に据わり、刺々しい金色が闇を睨んだ。

柳を追いかけるという決断が間違ったものだとは思わない。あの状況で柳を追いかける事ができるのはおそらく柳生だけだし、自分の考えだけで暴走気味の柳を説得はできずとも傍で手助けできるのも柳生だけだろう。
真田は拒絶され、赤也は残らなくてはならない理由があった。丸井ではきっと、柳の傍にはいられない。

それはあくまで性格と考え方の問題で、それを短時間で考慮した柳生の判断が正解だとしても、やり方はあまりにも勝手すぎる。


「その上、幸村が異界へ消えたじゃと? 冗談にも程があるじゃろ。なんでこんな事ばっかりまとめて起きるんじゃ」


己の信念で離反した柳と、それを追いかけて何処かの狭間へ消えた柳生。
鏡の世界へ戻れぬまま和室に残る赤也と、柳に考え方の相違で敵対し、その上幸村から完全なる拒絶を突きつけられた真田。
大切なパートナーを失って、最悪の状態からは浮上したものの未だ傷心の丸井。
そして、半身を失って力の半減した自分。

あまりにも状況が悪すぎる。異界へ消えた幸村を追うにせよ、新たな手を考えないまま追いかけても意味がない。
そもそも幸村は真田に拒絶を告げたのだ。その場凌ぎの手を持って行ったとしても、本人が拒絶すればどうしようもない。

用意するのなら、幸村が納得できる方法が必要だった。


「んなもんあるわけないじゃろ」


自分の考えを否定して、ため息を漏らす。
幸村がどうして異界へ消えたのか、その理由ははっきりとは分からない。
けれど真田に告げた言葉から考えれば、何もかもを諦めてしまったのだと考えるのが一番だった。

もしも幸村が本当に全てを諦めて仲間の幸せを願ったのなら、きっと枷を外してしまっているだろう。
その上で異界へ向かったのなら、鬼化する事を覚悟したうえで、現世を穢してしまわないようにあえて異界に身を投じたのだと考える事ができる。
仮にそうだとしたら、何らかの手を用意して助けに行っても、手遅れの可能性も高い。


不確かな確定ばかりが脳内を巡り、それでもなお彼を救う事ができないかとひたすら考える。

一瞬だけ、彼の傍に寄り添っていた人間の姿が浮かんだけれど、すぐにそれを振り払った。
一度枷になったにせよ、あれはあくまで人間だ。人間が異界へ入り込めば、すぐに闇に呑まれて消える事になる。
それを知った上でその存在を利用できるほど、七不思議たちは非情にはなれない。

だからこそ、柳はそれを疎んで一人危険な手を探しに行ったのだけれど。


「じゃけど、もし……」


もしも、あの人間が枷が外れたことに気づいて、その真相を知って。
何もかもを理解して、それでもまだ彼の事を救いたいと望むなら。

一度危険にさらした命を、もう一度賭ける覚悟があるというなら。


「じゃが、打つ手はどうする?」


纏まらない考えのままに言葉を吐き出し、返らない答えを想像しながら思考を固めていく。

例え冷たい瞳と強大な力で拒絶されたのだとしても、どうしても諦められないものがある。
他の何を犠牲にしても助けたいと、自己を失って二人で二人を演じることしかできない自分にも、そう思えるだけのものがある。

だからこそ、覚悟を決めなくてはならない。
失うべきものと、救うべきものと。

今は全てを掬い上げてくれる片割れはいない。
どの決断も、全て自分の責任だった。







自分の場の外でざわめく闇に、怯えることしかできない自分が憎い。
真田から聞いた彼の拒絶で、あっさりと心が折れてしまった自分が情けない。
何があっても彼の事を助けたいと思っていたのに、その気持ちを否定されてしまっただけでこんなにも胸が痛かった。

止まったと思っていた涙がまだ込み上げてきて、苦し紛れにそれを乱暴に拭う。
どうして、と声にならない言葉が喉の奥につっかえて、息をするのも辛かった。


苦々しげに彼の言った言葉を伝えた真田は、それでも諦めるなと話を締めくくった。
けれど、その言葉をそのまま呑みこんで、彼の願いを無視してしまう事はできそうにない。

だって、彼が願ったのは七不思議たちの幸せだったから。
自分の存在が消える事を覚悟した上で、彼は全てを拒絶したのだから。


どんな表情で、こんな声で、彼は真田に拒絶を告げたのだろう。
その時、自分がその場にいなくて良かったと思う。その場でその表情を見て、その声を聞いてしまったら、きっと自分は泣いてしまっていた。


「――ジャッカル、俺どうしたらいいんだろうなぁ……」


どうすれば、俺たちの幸せを願う彼を幸せにしてあげられるのだろう。
全てを自分のせいだと責める彼に、この思いを伝える事ができるのだろう。

長い時を過ごした痛みも、苦しみも。
彼を助ける為なら、いくらでも耐える事が出来たのに。


「笑われるかもしれないけどよぃ。俺、やっぱお前がいなきゃ駄目なのかもしんねーな」


以前のように無邪気に笑って、彼の傍にいられればそれで良かった。
だからこそ、七不思議となって彼を現世に縛り付けた。

けれど、その願いさえも、彼を苦しめる一つになっていたのだとしたら。
彼の為にと願ってやっていた事が、逆に彼を苦しめる事になっていたのだとしたら。

そんな事は無いと、自分でその疑問を否定するのに、どうしてもその考えが拭えない。


もし、その疑問が真実だったとしたら、この先は一体どうすればいいのだろう。

彼を苦しめてまで彼の為を願うのか。
全てを諦めて昇華を待つのか。

きっとどちらを選んでも、彼も七不思議たちも幸せにはなれない。
けれど、だからと言って他にいい案が浮かぶ事も無かった。

ただ、胸の奥の痛みだけが緩やかに積み重なっていく。


「……お前なら、どうするかなぁ」


ぽつりと呟いた言葉が、闇のざわめきに呑まれて消えた。
場の中までは入ってこないが、完全に周りを囲まれてしまっている。迂闊に外に出れば確実に襲われるだろう。
自分の力ではこんなにも勢いを増した闇たちを打ち払う事はできない。明日からは仁王の所にでも避難した方が良いかもしれない。

そう言えば、今は柳生と別れて片割れになった仁王は、果たして何を決断するのだろうか。
銀色の月の光が差し込む床を眺めて、ぼんやりとそんな事を考えた。







真白に輝いていた月が緩やかに高度を落とし、入れ替わるように朝日が昇っても、私は枷が外れた事実を信じられずにいた。

ベットの上で膝を抱えて座り込み、時折視線を彷徨わせて何かを探す。
最早何を探しているのか自分でも分からなくなってしまっていたけれど、そうしていないとまた涙が零れてしまいそうだった。
手の中に残った枷の欠片を握り締めれば、否応なく今が現実なのだと思い知らされた。

ぼんやりとした意識の中で時計を探し、時間を確認する。いつの間にか、いつもの起床時間が迫っていた。
学校に行かなくてはならない。そして、一番にあの廊下に行って彼を探して―――。


「……探して……?」


本当に枷が外れてしまったのだとしたら、果たして彼はまだあの廊下にいるだろうか。
あの冷たい笑みを浮かべて、いつものように毒舌を吐きながらあの場所にいてくれるだろうか。

ふと気づけば、自分がのろのろとした動きで学校へ行く準備を始めていた。それを他人事のように見つめながら、行かなくてはならないと口の中で呟く。
例えあの廊下に彼がいないのだとしても、七不思議たちを探して事情を聞くことはできるだろう。
彼が本当に鬼に堕ちてしまったのだとしても、もしかしたら彼を救う方法があるかもしれない。


七不思議たちは幽霊で、私は人間だ。
だからこそ、私にしかできない事がある筈だ。

そうやって自分を奮い立たせると、不思議な程身体に力が戻ってきた。
いつも以上の早さで準備を整え、適当に教材を放り込んだ鞄を抱えて家を飛び出した。はやる心を抑えて、精一杯の速度で通学を駆け抜ける。

しっかりと手に握りしめた小さな欠片が、ほんの少しだけ熱をもったような気がした。







廊下に私の足音だけが響く。通り過ぎていく教室に人影はなく、時折窓の外から部活をする生徒たちの声が聞こえてきた。
それを聞き流しながら通い慣れた廊下を進む。教室を出た時には早足だった速度は、廊下に近付くにつれて段々と早まり、最後には小走りになっていた。
まだ先生が来ていないのをいい事に、一心不乱に廊下を進む。学校に来るまでも走ったからか、日頃運動不足の身体が悲鳴を上げた。

息を切らせて最後の角を曲がり、相変わらず埃っぽい空間に飛び込んだ。


「……ゆきむら、くんっ……!」


視界に広がったのは、いつも通りの薄暗い廊下。

一瞬だけそこに、半透明な彼の後姿が見えたような気がした。
全てを拒絶するようなひたむきな背中が、ぼんやりと宙に浮かんでいる。


けれどその残像は、瞬きをした途端煙のように消えてしまった。

冷たいコンクリートの壁があるだけの、小さな空間。
そこに、彼の姿はない。


「……幸村君、いないの……?」


天井から床まで視線を一周させ、何度か名前を呼ぶ。
それでも彼の姿はどこにもなくて、それ以前にここには何の気配も無かった。

のろのろと重い足を進めて、いつも彼が漂っていた廊下の片隅に立つ。くるりと振り返って廊下を見やれば、どこまでも続いているような暗い廊下が見えた。
たった一人この場所にいて、ずっとこの景色を眺めていたのだとしたら、一体どんな気持ちだったのだろう。


灰色の景色。
何も無い冷たい壁。
出る事の叶わない狭い世界の中で。


「……いない、んだね……」


他の場所にいるかもしれないと、そんな淡い期待を持ったけれど、他に彼がいるような場所が思いつかなかった。
ここ以外に彼の姿を見たのは教室と影に襲われた廊下、そしてあの屋上だ。
学校内ならどこにでも行けるのだろうけれど、他の七不思議のように廊下などで出会う事はなかった。


最後にもう一度廊下を確認して、私は一つの答えを出す。


彼はここにはいない。

―――なら、一体どこに?


「……誰かに、聞かなきゃ……」


もしも彼に何かがあったのなら、七不思議の誰かが知っている筈だ。
話を聞いて、事実を知らなくてはならない。

小さな欠片が手の中にある事を確かめて、私は薄暗い廊下を飛び出した。




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