見知らぬ生徒たちが静かな教室で授業を受けている。一心不乱に黒板を見つめる彼らの目は、硝子玉のように無機質で冷たい。
その視線の先に立つ教師も、ひどく単調な声で教科書を読み上げていた。

私はその教室の一番後ろで、ふわふわと宙に浮かんでそれを見下ろしている。
まるでお芝居のように進む授業を馬鹿馬鹿しいと思いながら、私は教室を出ようとした。
けれど、向きを変えた私は戸惑いと共に動きを止める事になる。ぐるりと教室を見回して、それがどこにも無いことを確認する。

どこにも、入り口がない。
扉も、窓も、何一つ。あるのは、冷たい壁だけだ。

予想外の事に呆然とする私の周囲を、いつの間にか生徒たちが取り囲んでいた。彼らは一様に異様な笑みを浮かべて、私を見ている。
どうして、彼らは私が見えるのだろう。だって、私は―――。

そこまで考えて、不意に胸の奥に痛みが走った。どす黒い炎が赤々と燃え上がり、それが自然と私の顔を笑みの形に歪めた。
自分でも感じられるほど、周囲の温度が下がり、辺りに蒼い靄が漂う。それに触れた生徒が耳障りな悲鳴を上げて一瞬で凍りついた。良くできた彫像のように、口を開いた状態で凍りついたそれは、幻想的な美しさを持っている。

それを見つめて、私は笑う。止まらない衝動のままに辺りを薙ぎ、断末魔に近い悲鳴を聞きながら、私は絶叫するように笑っていた。



そして、景色が一変する。



狂気に満ちた情景が消え去り、全てが塗りつぶされた闇だけが残った。
自分がどこにいるのかさえ見失うような闇。それは形を持たぬままに周囲を蠢き、何度も何度も私の身体に触れる。
触れる度にそれは私を呑みこもうとするが、その度に私の周りを踊るように旋回する蒼い輝きがそれを打ち払っていた。

どくん、どくんと、心臓の鼓動のように痛む頭を抱えて、私は吼える。
自分の存在が内側から変わっていく感覚に耐えながら、それを抑え込むために力を暴走させた。

喉が枯れても、肺が痛んでも、私の絶叫は止まない。
反響さえも闇に呑まれ、私は自分が叫んでいるのか、それとももう闇の呑まれてしまっているのかそれすら区別がつかぬまま、ただ私を引きずり込もうとする何かに抗っていた。

私はまだ私でいたい。他の何にもなりたくない。
例え、それになってしまう事で長い間願い続けた復讐が叶うのだとしても、今はそれ以上に失いたくないものがある。
握りしめた右手が、燃えるように熱い。その熱が私を引き留めるように、時折手の中で揺れる。
きつく目を閉じ、自分の心に宿る約束を思い出す。言葉を託した青と紫の花の幻が揺れて、噎せ返るような花の香りが鼻腔をくすぐった。


けれど、何もかもが一瞬で過ぎ去っていく。
何度も繰り返すあの時が、いつも同じものを残して消えていく。

闇の中で生きる私に向けて伸ばされた手。
屈託のない笑顔と、そのぬくもり。
何よりも守りたかった、彼女。
それだけが私を支え、そして心の中に後悔を生んだ。


何も、言えなかった。
何も告げないまま、置いてきてしまった。
彼女は泣くだろうか。彼女は悲しむだろうか。

ちゃんと思いを告げたかったのに。
けれど、それは望んではいけないから。
だからこそ、私は――――。


私の全てと引き換えに、一番大切なものを守ることにしたのだ。







目を開くと、何故か涙が流れていた。寝起きでぼんやりとした意識のまま、おざなりに冷たい雫を拭う。

夢を見ていたような気がした。けれど、それがどんな夢だったのか、はっきりとは分からない。
きっと悲しい夢だったのだろう。だからこそ、こんなにも胸が痛くて、苦しい。

のろのろと起き上がり、ベットサイドの時計を探す。淡い月の光が差し込み、部屋を薄く照らしていた。
それを頼りに時刻を確認すれば、午前三時を少し過ぎていた。


「……夢、だよね……」


何一つ覚えていないのに、どうしてか悲しい気持ちになる。拭ったはずの涙がまた零れて、シーツに小さな斑点を描いた。
目を開いたまま涙を零せば、ふと蒼い輝きを見たような気がした。

見慣れた、蒼。
いつだって美しい、冷たさ。


その色を探してさして広くない部屋を見回せば、先程までなかったはずの糸が見えた。
部屋中を縦横無尽に埋め尽くし、ぐるぐると私の周囲を囲むようにして広がるそれは、私の右手の人差し指から伸びている。
薄暗い月明かりの中でほんのりと薄蒼く輝きを発し、私が指を動かせば辺りの糸も揺れた。


「……何、これ……」


驚きと共に、どうして今まで気づかなかったのかという疑問が浮かぶ。
これまでもこうして私の周囲を取り囲んでいたのなら、気が付かない筈がないのに。
興味本位に手を伸ばし、糸を軽く引いてみる。人差し指に結ばれている糸の端は、多少引いたくらいではほどけなかった。

蒼い輝きを見れば、なんとなく彼に関係しているのだろうという事は分かった。
私の指から伸びる先に彼がいるのだとしたら、おそらくこれは絆の枷だ。彼と私の間を繋ぐものはそれしかないのだから。

もう一度糸を引いて、それ以上考えるのをやめる。これだけ無差別に辺りを囲んでいても私には絡まっていない様だし、とりあえずは放っておいても良いだろう。
どちらにせよ、私がこれ以上考えても分かるようなものではない。明日、七不思議の誰かに聞いて―――。


そこまで考えた瞬間だった。
先程まで指で摘まんでいた糸が、唐突に光を放った。

あまりの眩しさに目を閉じ、反射的に糸が繋がっていた人差し指を左手で押さえる。
指先が一瞬だけ熱を持ち、そして耳鳴りのように声が聞こえた。

それは、悲しげな彼の声で。
ひどく真っ直ぐに言葉が響く。



『俺は、君の事なんて嫌いだ』



その言葉が意味を持った瞬間、心臓が撥ねた。

あまりに単純な、拒絶の言葉。
それなのに何故、彼の声は悲しげなのだろう。

絆の枷を繋ぐのは想い。
それを知っている筈なのに、どうして彼は私を拒絶するのだろう。

絆の枷はとても脆い。
幽霊と人間、どちらかがその想いを変えてしまえば、いとも簡単に枷は外れてしまう。


―――枷が、外れてしまえば。

彼は、鬼と為る。


「……駄目、待ってっ……!」


思わず声を上げて、目を開く。
薄い闇が溶ける視界に、先程まで部屋中に広がっていた糸が光を上げて崩れていくのが見えた。

きらきらと鱗粉のような破片を宙にばら撒いて、枷が脆く消えていく。
身体を硬直させて呆然とそれを見つめ、全ての破片が完全に見えなくなってから、ようやく事態を理解した。


彼が私を拒絶したのだ。
そして、枷が外れた。

ぶるぶると震える左手の力を緩め、握りしめていた人差し指を解放する。
こつん、と軽い手ごたえと共に、手のひらの中に小さな糸の欠片が落ちた。

ほの蒼く耀くそれが、先程の光景が夢ではないと告げていた。


「……幸村、君……?」


声が届く訳がないのに、言葉が漏れた。
恐ろしい考えが、頭の中を埋め尽くす。心臓が早鐘のように打ち、吐き気が込み上げてきた。
何度も何度も、彼の名前を呼びながら、私はある筈のない別の答えを探す。

どうして、声が聞こえたのか。
どうして、彼は私を拒絶したのか。

そして、枷が外れた彼は、今どうしているのか。


「……どうして……っ!」


押し殺した絶叫と共に、また涙が零れた。
先程まで周囲に満ちていた蒼い輝きを探して視線を部屋中に彷徨わせ、それだけでは満足できずにふらふらと夢遊病のように歩き回った。

どこにもない糸を探して、私は暗闇の中を探し続ける。
手の中に残った枷の破片がその証明だというのに、私はその事実を受け入れられずにいた。







「……副部長」


静けさに包まれた和室の中で、ひどく強張った声が響いた。
それに応えて、長身の影が身じろぐ。窓から差し込む月明かりが、畳の上で正座する影をはっきりと浮かび上がらせていた。


「―――どうかしたのか」
「幸村部長、どうして……全部やめろなんて言ったんですかね」
「何故かなど考える必要はない。俺たちはただ、幸村を救うために死力を尽くすのみだ」
「じゃあもし、幸村部長を救うために俺たちがしてる事が、全部無駄だったら……?」
「なんだと?」


和室の片隅で膝を抱え込む影が一つ。緑色の宝石のような輝きを瞬かせながら、小柄な七不思議がさらに言葉を紡いだ。


「幸村部長は救われる事を望んでないのに、それなのに俺たちだけ頑張っても仕方ないじゃないですか。俺たちが良いと思ってるだけで、幸村部長にとって迷惑なだけだったら、俺たちどうしたらいいんですか?」
「お前は幸村が鬼に堕ちる事を望んでいるとでも思うのか」
「そんな事は思ってないですけど……でも、それでも幸村部長が望まないなら、俺たちのやる事は余計なお世話じゃないですか!」


必死の形相で、目に涙まで浮かべて叫ぶ赤也を見つめていると、いつになく冷たい瞳で全てを拒絶した彼の姿が脳裏に浮かんだ。

冷たい瞳の奥に、どこか穏やかな色を混ぜて、彼はもうやめろと言った。
彼の告げた言葉がぐるりと頭の中を巡り、けれどそのどれにも共感する事も、納得する事も出来ない自分がいる。
納得できるはずがない。もしもそれに頷いてしまえば、自分たちは大切な仲間を見捨てる事になるのだから。


「―――余計なお世話のどこが悪い」
「……は?」
「幸村が何と言おうと、俺は知らぬ。俺は幸村を救わねばならぬのだ。幸村に消えて欲しくないと願う自分の心を誤魔化す事などできぬ」
「それで幸村部長に恨まれても良いんですか?」
「構わぬ」


一息に言い切って、視線を逸らす。
窓の外には煌々と輝く月があった。その光を浴びながら、手の中に収めていた小刀を懐に戻す。
柄に繋がれた紐の先で、銀色の鈴が涼しげな音を立てて揺れた。


「赤也」
「……はい」
「幸村は長き時を一人で過ごして、忘れているのだろう」
「忘れてるって……」
「俺たちの中に一度言って聞くような性格をしている奴がいない事を、あいつは忘れてしまっている。ならば、俺たちが思い出させてやらねばなるまい。そもそも、自分が犠牲になって全てを丸く収めようとする精神こそたるんどる。俺が叩き直してくれるわ」
「……副部長。それ、面と向かって幸村部長に言って下さいね。ぜってー、めちゃくちゃ怖い顔で怒られますよ」


笑みを含んだ声でそう言って、赤也が泣きそうに顔を歪めたまま笑った。
構うものかと低く呟いて、鈴の音を響かせながら立ち上がった。



どうして、彼はあの時あんなにも穏やかな瞳をしていたのだろう。

忘れてくれと願い、全てを自分のせいだと責めて。
そんな苦しみの中で、どうしてあんな瞳ができたのだろう。


「……すれ違ってばかりだな、俺たちは」


お互いに幸せになって欲しいと相手の事ばかりを願い、自分が犠牲になることを厭わず。
だからこそ、お互いに傷ついていく相手を見ているのが辛かった。

そんな負の連鎖は、断ち切らなくてはならない。


「赤也、俺は何があっても諦めぬ。幸村の事も、俺たちの事もだ」
「はい!」


全てを元のように戻せなくても、その先に誰もが笑いあえる幸せがあるのなら、何かが変わってしまっても構わなかったのに。
それに気づけなかったからこそ、こんなにも遠い回り道をしてしまった。

けれど、それはもう終わりだ。残された道は一つだけ。
その先に希望がある事を信じて、ただ前に進むしかない。


闇に透かした蒼い輝きが、猫のような笑みを浮かべていたような気がした。




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