時計の針の進みが、やけに遅く感じられる授業終了五分前。
既に机の上は綺麗に片づけられていて、申し訳程度にノートが一冊置かれていた。
教師の声もほとんど耳には入ってこなくて、ただのろのろと進む秒針を睨み付ける。


「はい、じゃあ今日はここまで」


チャイムと同時、そう言い放った教師の声が消える前に、私は廊下に飛び出していた。
授業終了直後でまだ人気のない廊下を走り、彼がいるであろうあの埃っぽい場所を目指す。

息を切らせてその廊下の隅に滑り込むと、そこには既に彼がいた。
端正な顔を退屈そうな色に染めて、ぼんやりと宙に浮かび上がっている。
そうやって彼が人間ならぬ行為をする度に、私は彼が幽霊なのだという事を再認識した。


「授業、終わったの」
「……あ、の、えっと、はい……」
「またそうやって馬鹿みたいにどもって。ちゃんと喋れって言っただろ?」
「……ごめん、なさい……」
「敬語もやめろって、言わなかったっけ?」
「……言いま、えっと……言ってた……」
「じゃあ普通に喋りなよ。何回俺に同じことを言わせる気?」
「……うぅ……」


彼の言葉はいつだって冷たくて、時には身を切り裂くように鋭かったけれど、それでも私は休み時間の度にここへ足を運んでいた。
鋭い声で私に言葉をぶつける彼は、私がここに来れば姿を現してくれたし、何よりその言葉の内容はどれも私の欠点だったから。
誰もが困ったように眉をひそめて目を逸らしてきた私の欠点に、彼はしっかりと向き合って真っ向からぶつかってきてくれた。
それが何よりも嬉しくて、私はあの日からずっとここに通い続けている。


「さっきの授業はなんだったの?」
「……地理。今はフランスについて……」
「ふーん。今はそんな事やってるんだ」
「……幸村君は何を習ったの?」
「さぁ、忘れたよ。遠い昔の事だからね」


にやにやと猫のように笑みを浮かべて、彼は私の言葉からするりと逃げだした。
ゆらりと揺れた彼の輪郭を見つめて、どうにか次の言葉を吐き出す。


「……ずっと、ここにいるの?」
「大体はここにいるさ。ここが俺の家みたいなものだからね」
「……家?」
「帰るところ、だよ。この学校が俺の生きる世界で、この薄暗い廊下が俺の家。それ以外の学校は家の外。遊びに行ったりもするけど、大して面白いものもないし」


ふと、一度だけ彼が教室に現れたことを思い出す。あれはきっと、彼にとっては外出になるのだろう。
そう思うとなんだかおかしくて、思わず小さく笑ってしまった。

その途端、彼の瞳が冷たく輝き、不穏な光を発した。


「何を笑ってるのかな。君なんて外に遊びに行くことすらないんだろう?」
「……そんな、こと……」
「ふーん。じゃあ、誰と遊びに行くのさ? 友達、いないんだろう?」
「……そうだけど……」


俯いて絞り出すように肯定すれば、彼は薄っすらと笑みを浮かべて首を傾げる。
その仕草はどこか芝居がかっていて、思わず見とれるほど綺麗に見えた。


「君に俺を笑う権利なんてないよ。君は出かける事さえできないんだから。友達は作れない、外には行けない。君は可哀想な子だね」
「……そこまで、言わなくても……」
「そうだな、確かに言い過ぎたぞ、精市」


あまりの彼の言いように勇気を振り絞って反論しようとした瞬間、不意に知らない声が飛び込んできた。
薄暗い廊下の隅に身を寄せながら振り向いたけれど、そこには誰もいなかった。
遠くから響いてくる生徒たちの喧騒が、どこか非現実感を帯びている。


「……あ、れ……?」
「ここだ」


ぬぅっと、壁から人の頭が生えた。
呆気にとられて呆然とその顔を見つめていると、彼が不機嫌そうに眉を寄せる。


「蓮二か。何しに来たんだい?」
「久々にお前の声が聞こえたからな。ちょっと寄ってみただけだ」
「図書館に住んでるなら、そこで大人しくしてなよ。どうせ真田か柳生の所にでも行ってたんだろ」
「半分は正解だが、半分は外れだ。確かに弦一郎の所には行ったが、そのあと赤也の所に寄った」
「そんな事はどうでもいいよ。俺は別になぞなぞに答えてる訳じゃないんだから」
「そうか。……にしても」


ちらり、と壁から生えた頭が私を見る。
……見た、はずだ。目が細すぎて瞳は見えないけれど、見られたという圧力は感じた。

思わず目の細い頭から離れて、彼の後ろに隠れた。
彼は鬱陶しそうに私を見やったけれど、何も言わずに頭に向き直る。


「人間か。珍しいな、お前が人間と話をするとは」
「どうでもいいだろ、そんなこと。俺が何をしようと関係ない」


冷たく切って捨てる彼の言葉を聞いているのかいないのか。
蓮二、と呼ばれた目の細い頭はじっと私を見ている。思わず見返しながら固まっていると、ふいにその頭がずるりと動いた。
壁から這い出すかのように、首から胴体、そして足がゆっくりと現れる。
そのまま空中に留まるその姿に、ようやく蓮二という彼も幽霊なのだと、つまりは彼の同類なのだと思い当たった。


「精市とどういう関係なのかは知らないが、一先ず自己紹介はしておこう。俺は柳蓮二。一応図書館にいる事になっているが、最近はいないことが多いな」
「……あ、あの。私、莉那です……」
「呑気に自己紹介なんてしてないで、そろそろ戻った方が良いと思うけど」


彼の言葉と同時、チャイムが響き渡った。
それ以上の言葉を交わすこともなく、私は身を翻して走り始める。

人気のない廊下を駆けながら、唐突に表れた柳蓮二という人ではない人について考えた。

彼の知り合いのようだったけれど、もしかして彼のような幽霊は他にもいるんだろうか。
もしそうだとすると、この学校は幽霊の巣窟のようなものなのだろうか。
気になることは今度彼に聞いてみよう、と私は心に決めたのだった。







「……本当にどうしたんだ。人間に姿を見せるばかりか、話をするなんて」
「蓮二、俺にそんな事を言える立場かい?」
「俺や他の霊たちが人間に姿を見せるのは、それが役目だからだ。だが、お前は違うだろう。お前は……」
「俺は俺のしたいようにするさ。俺がこんな所にいる理由を忘れた訳じゃない」
「ならば、これ以上人間とは関わらない方が良いだろう」
「蓮二には関係の無いことだよ。君たちは君たちの役目を果たせばいいだけだ」


冷たく、青く輝く瞳で、蓮二を睨み付ける。
薄暗い廊下の空気が張りつめて、ひどく重苦しくなった。

それ以上蓮二が何も言わないのを確認し、宙を滑って距離をとる。
そのまま空中に掻き消えようとする俺の背中に向けて、声がかけられた。


「まだ、人を恨むか」
「…………」


返事をせずに空に溶ける。
問いかけはひどく重く、その答えは見つからない。
見つけられないことが分かっているからこそ、狂おしいほどに求めてしまうのだ。



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