沢山の嘘をついた。
真実を隠す為に、口を閉ざした。

彼女の為、と心の中では呟いて。
けれど、本当は全て自分の為だった。

彼女を傷つける事より。
自分が傷つく事が怖かった。


全てを告げて、真実を見せたら。
その時、彼女はきっと泣くから。

何よりも、その涙を恐れていた。







いつもの薄暗い廊下に佇み、静かに目を閉じた。
意識を集中して自分の周囲を注意深く探れば、そこにはか細い蜘蛛の糸のようなものが漂っていた。

それは、枷の具現。
鎖でも契約でもない、絆の枷。

それが自分を縛っている唯一の証だった。


ぐるぐると蜷局を巻くように広がるそれは、きっとどこかの端が彼女に繋がっているのだろう。
手を乱雑に振り払えば切れてしまいそうなほどに細い糸は、この枷の不安定さを表している。

鬼化を留める為の枷は、しっかりとその役目を果たしている。
そうでなければ、自分は一瞬たりともこの場所にいられなかっただろう。

けれど、霊力のなさ故に選ぶしかなかったこの枷は、ひどく脆いものだ。


例えば、この気持ちを否定するだけで。
例えば、彼女がこの力を恐れるだけで。

この糸は簡単に千切れ、そしてこの身は暗い闇の中へ堕ちていくだろう。

そしてその脆さ故に、深い闇は少しずつ近づいてきている。



不意に、ちりんと涼やかな鈴の音が響いた。
音のした方に視線を向ければ、薄暗い廊下の隅から影が沸き起こる。

それは、厳しい表情を浮かべた七不思議の一人だった。


「―――真田、珍しいね。君がここに来るなんて」
「その……調子は、どうかと思ってな。皆案じているので、俺が様子を見に来たのだ」
「俺が鬼化してないかどうか、って?」


返る言葉がないのは図星だからだろうか。
険しかった顔がさらに歪み、真田が言葉を探すように視線を彷徨わせる。

それを無視して空中に手を伸ばし、意識の隅で捕えたままだった枷の糸を指先で摘まんだ。
その糸を見る事の出来ない真田が、不思議そうな顔をしてこちらを窺った。

糸を掴んだまま手を引けば、それに従って周囲の糸が揺れる。


「真田、もしも俺が鬼になったらどうする?」
「どうする、とは……」
「もしも俺が鬼になって、その時お前に鬼を殺す力があったら、俺の事を殺してくれるかい?」
「何を言っているのだ。そんな事を……!」
「冗談だよ。そもそも鬼を殺す力なんて、そうそうある訳がないじゃないか」
「冗談でもそのような事を言うな。不謹慎にも程があるぞ」


真っ直ぐな黒い瞳が、こちらを見ている。
そこに映る自分は、ひどく冷たい目をして嘲るような笑みを浮かべていた。


「一つ、報告がある。ジャッカルが先日昇華した」
「そう、ジャッカルが一番だったんだ」
「驚かないのだな」
「だって、俺たちは幽霊だよ? 昇華するのが当たり前じゃないか」
「それはそうだが……」
「封印が解けた今、君たちが俺に縛られる必要はない。満足して逝けるなら、それが一番だろう」


長い時を縛り付けられて。
ただ、変化のない日常が過ぎた。

どこまでも続くその日々はひどく単調だ。
拷問のような、地獄のような、そんな苦しみ。

彼らがそこから解放されるなら、それは喜ばしい事だと思った。


「君たち全員が昇華したら、俺は一人か。そうなったら、気兼ねなく鬼化して全てを忘れられるよ」
「……今、全員で新たな封印を探している。だから、諦めるな、幸村。まだ道は必ず―――」
「真田、もういいよ。もう、俺の為にそんな事しなくていい」
「だがっ……!」
「俺はもう見たくないんだ。俺の為に傷つく誰かも、俺のせいで苦しむ誰かも。君たちは辿るべきだった道を辿って、先に進むべきだよ。俺が鬼に堕ちるのは、俺の業なんだから」


鬼になれば、そんな罪の意識も消えるのだろうか。
どうして人を恨むのかも忘れ、ただただこの胸の奥で燃えるように揺らめくこの憎しみだけが、俺の中に残るのだろうか。

その時、俺は―――彼女でさえ、恨むのだろうか。


「俺たちは諦めぬ! そこに可能性がある限り、お前の為に力を尽くす! それが、俺の……!」
「真田、もういいんだよ。―――きっと、もう手遅れだから」
「……なん、だと?」
「真田、皆に伝えておいてくれるかな」


呆然とした表情で固まった真田に、言葉を告げる。

彼女に別れを告げる事ができなかったからこそ、彼らにだけは思いを告げておきたかった。


「君たちの苦しみは俺の責任だ。俺の為にこんなにも長い間この学校に縛られることになって、本当にすまなかった。だから―――もう、俺の事は忘れて欲しい」


あの時、俺は死んだ。

もう二度と、彼らには会えない筈だった。


それを歪めてしまったのは俺の弱さだ。
償う事が出来ないほどの罪を背負って、俺が全てを終わらせなくてはならない。


「幸村、俺はそんな事は許さんぞっ! 全てを諦めて逃げるのか!」
「そうだよ、真田。俺は逃げる。俺が逃げる事で皆が救われるなら、俺は世界からだって逃げてやる」
「なっ……」
「俺が鬼になって全部終わるなら、俺は鬼にだってなるよ」


覚悟はできていた。
実を言うなら、遥か昔から。

きっとこの恨みはどれだけ年月が経っても消える事は無い。
深く深く根付いたそれは、俺の心に巣食ってしまっている。

それが消せない事は、自分がよく分かっていた。
だからこそ、こんな自分の為に縛られた彼らの姿を見るのが辛かった。


枷の糸から手を離し、真田に背を向けた。同時に力を解放して周囲を蒼い霧で満たす。

立ち込める霧が真田と自分の間を裂いた。
ひんやりとした冷気が立ち込め、それが真田に拒絶の意思を示す。


「もうここには近づかない方が良い。鬼化する俺の傍にいると、引きずられるよ」
「……俺たちは、諦めぬ。お前が何と言おうとも、お前自身を諦めたりはせぬぞ!」


ちりん、と鈴が鳴った。
廊下の影に溶けるようにして消えていく真田の気配を感じながら、静かに息を吐いた。

語らなかった真実と、告げた言葉と。
迷いは未だにあるけれど、後悔はない。


「鬼と為れば、世界を穢す。鬼に堕ちれば、道連れを求める」


曲げられない事実を呟いて、薄暗い廊下の隅を見やる。

ここに封じられてから、毎日のように見ていた場所。
そして、生きていた自分が、最後に見た景色。

あの時、少しずつ力が抜けていく身体で精一杯手を伸ばして触れたのは、ひどく冷たい壁だった。


「ここで終わって、そして始まった。なら、次の終わりもここかな」


辺りに満ちる、冷たい霧。
それを廊下の隅に押し込むようにすれば、思っていたよりも簡単に黒い光が湧きだした。

手招くように、闇が揺れる。
その向こうに、黒い世界が見えた。

異界への裂け目から這い出した闇が足に触れ、この身体を呑みこもうと膨れ上がった。
けれど次の瞬間、蒼い霧がその闇を打ち払う。

苦しむようにもがく闇を一瞥し、低く呟いた。


「……俺に、触れるな。俺はお前たちの望むまま、鬼になる訳じゃない」


闇たちが怯えるようにざわめき、辺りをずるずると這った。
通常ではありえない黒い光を撒き散らす裂け目に近付けば、生ぬるい風が頬を撫でた。

先程離した枷の糸を再び手繰り寄せ、強く握り締める。


目を閉じれば、浮かぶ光景がある。
どうやっても逃げられない悪夢と、苦しみの記憶。

そして、同時に浮かぶのは彼女の笑顔。
風に揺れる花々と、交わした約束。
もう二度と、叶う事のない願い。

手に入らない事は分かっていた。
けれど、望まずにはいられなかった。


冷たく暗い世界の中で、救いを求めていた自分に差し伸べられたぬくもり。
気が遠くなるほど長い時の中で、ようやく見つけた希望。

彼女の枷で縛られ、そうして傍にいられたなら、それだけで充分だったのに。

それを望めば、いつかはあの希望さえ闇に堕ちてしまう。
仲間の一生を壊したあの時のように、全てを壊してしまうくらいなら。



自分でも不思議なくらい、心は穏やかだった。
揺れる事も、迷う事も、惑う事も無く。

ひどく静かに、心が泣いた。


「俺は、君の事なんて嫌いだ」


その瞬間、ぷつりと音を立てて。

呆気なく、か細い糸が切れた。


かろうじて手の中に残ったその名残を握り締め、辺りに広がっていた糸が消えていくのを見つめる。
これで枷は外れた。自分が鬼に堕ちた時、彼女が引きずられることはない。

ずきりと激しく痛む頭を抱えて、一歩踏み出す。
蒼い霧が一瞬にして凍りつくほどに冷気を増して、裂け目の中へ飛び込んでいく。
それに引きずられるようにして裂け目に手を入れれば、向こう側から何かが手を引いた。

黒い世界に呑まれるようにして、異界へ足を踏み入れる。
全ての音が消え去り、色までもが失われた。後に残るのは、蒼い霧の輝きだけ。



―――その輝きが消えた時、俺は鬼となるのだ。




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テーマ「人外ファンタジー」
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