声を上げる暇さえなく、湧きあがった闇が私の視界を埋め尽くした。
反射的に身体が動いて一歩後ずさり、けれどそんなものに意味はない。

目を閉じる事すらできずに闇を見上げた私の前に、彼が飛び出した。


「……もうこんな所まで来ているんだね」


声と同時、突風が闇を薙いだ。形を崩されて後退した闇が、なおもこちらに迫ろうと廊下いっぱいに広がっている。
突風の余波が私をよろめかせ、辺りの花々を吹き飛ばさんばかりの勢いで揺らした。

ひんやりとした冷気がどこからともなく流れてくる。
それを感じながら、そっと彼の傍に近付いた。


「……幸村君、これ、は……」
「学校に広がる闇だよ。夜になるとよく湧く。今の時間ならまだ大丈夫だと思ったんだけどね」


蠢く闇を見ていると、否応なく柳を思い出した。
お礼を言おうと思っていたのに、結局あれ以来会っていない。

会ったらきっと柳は嫌な顔をするだろうから、なかなか会いに行く決心がつかずにいた。


「面倒な事に、出口を塞がれたみたいだね」
「……え……?」
「俺は空を飛ぶか床を突き抜ければどこへでも行けるけど、君はここからじゃないと出入りできないだろう?」


扉の周囲を完全に塞ぎ、さらに階段の方にまで伸びている闇。
果たして、この闇はこの学校のどこまで埋め尽くしているのだろう。

彼の言葉通り、この闇たちをどうにかしない限り、私は屋上から出る事ができない。


「全部散らすしかないな」
「……散らす……?」
「そう。あんまり動いたら巻き込むかもしれないから、俺の後ろで大人しくしてて」


彼の周囲に冷気が満ちる。凍ってしまいそうなほど冷たいそれは、彼の力が周囲に広がっているからなのだろう。
陽炎のように空気が揺れる。それを感じながら、私は彼の背後で身を縮めていた。

闇たちが冷気を感じ取ったのか、じりじりと彼から距離を取る。けれど、闇の向こう側に階段のようなものが見えた瞬間、その質量が一気に膨張した。
勢いよく飛び出した闇の塊が彼に向かって弾ける。手の一振りでそれに応じた彼の冷気が、周囲の空気を歪めながら闇の突進を打ち消した。
鈍い音が響いて二つの力が相殺され、階段付近に残された闇が苦しむようにのたうつ。


「そこをどけと言っても、君たちには分からないだろうけどね」


陽炎が湧き立ち、それが蒼みを帯びた霧のようなものに変質した。
ぐるりと彼の周囲を巡り、それが残った闇の方へと飛び出していく。霧に触れた闇たちは光を浴びたかのように一瞬で消え去り、何一つその痕跡を残さない。

霧が闇を消し去る度に、音にならない闇の悲鳴が聞こえるような気がした。
ゆるやかに蒼みを増す霧が、彼の意思に従って辺りを駆け巡る。それが肩や足に触れる度に、ひんやりとした冷気を感じた。

彼の力を見るのは初めてではない。
以前影から助けてもらった時と、彼が暴走していた時の二度。
けれど、そのどちらと比べても、今振るわれている力はひどく冷たいような気がした。

誰よりも烈しく、鮮烈で、そしてどこか美しい力。
けれど、それを操る彼は、ただひたすらに冷たい。


「……幸村君……」


こんなにも近くで名前を呼んだのに、彼は振り向かなかった。

廊下いっぱいに広がっていた闇は、もう残り滓のようなものしか残っていない。逃げまどうように揺れるそれに向けて、蒼い霧が放たれる。
闇が私たちを襲っていたはずなのに、いつの間にか彼の力が闇を蹂躙していた。


「……幸村君、もういいよ……幸村君っ……!」


触れられない事を分かって、肩に手を伸ばした。
案の定、それは冷たい彼の身体を突き抜けただけだったけれど、声が届いたのか彼が勢いよく振り向いた。


「……ゆきむ、ら君……?」


泣きそうに歪んだ蒼い瞳が、私を映す。
怯えた子供のようにすぐに目を逸らして、彼の手が力無く落ちた。

周囲に広がっていた蒼い霧が緩やかに霧散し、きらきらと輝きながら溶けていく。
幻想的なそれを見ながら、私は静かに彼の手に自分の手を重ねた。突き抜けた手が重なり合い、冷たい感触だけが残る。


「莉那、俺は……」
「……幸村君。助けてくれて、ありがとう。もう大丈夫だよ……」


廊下に広がる闇はもうない。先程まで残っていた残滓のようなものは、彼の力から逃れてどこかへと消えた。
後に残るのは、彼の力の残滓だけだ。


「……もう廊下通れるから。だから、帰ろう……?」


この力を、その冷たさを

怖いとは、思わない。
どんな時も、彼を怖いと思ったことはない。

けれど。
彼は自分の力の強さを良く知っていて。
それが誰かを傷つける事をひどく嫌っている。

そして、その力故に自分が畏怖の対象となる事を恐れていた。


誰もいない、孤独。
話しかけられることも無く、認識される事も無い。

寄り添う人のいない寂しさと、自分の向けられる恐怖の瞳。
その瞳を向けられる事が怖くて、誰かに近付くことさえできずに。

彼はきっと、一人の時間を過ごしてきたのだろう。


「……早くしないと、遅くなっちゃうね……」


重ねていた手を離して、その冷気を名残惜しく思いながらそう呟く。
彼は返事をしないまま、ふわりと浮き上がって扉をくぐる。薄暗い室内では、彼の姿をはっきりと見る事ができた。

彼に続いて扉をくぐり、一度見事な庭園を見回してから扉を閉じた。
そうして前に向き直れば、彼が少し離れた場所からこちらを振り返っていた。


「……どうしたの……?」


物言いたげな目をして、けれど口は開かずに。
彼が冷たい蒼で私を見ている。


「……幸村君……?」
「莉那、もしも俺が―――……」


何かを迷うように言葉を詰まらせて、彼は頭を振った。
首を傾げて言葉の続きを待つ私を手招いて、すぅっと階段を滑るようにして下りていく。


「―――なんでもないよ。またどこかで闇が湧いているかもしれないから、下まで送って行く」
「……あ、ありがとう……」


彼の声はどこか悲しげに響いたけれど。

それがどういう意味を持つのか、私には分からなかった。







意識して抑え込んでいる力を解放すれば、周囲を蒼い霧が舞った。踊るように廊下に広がるそれを眺め、腕の一振りで振り払った。

ずきりと鈍い痛みが頭に走って、視界の半分が一瞬だけ紅く染まる。
それ以上痛みが広がらないように注意しながら力を抑え込み、目を閉じた。

心臓の鼓動のように規則的な痛みは、きつく目を閉ざしていれば少しずつ弱まり、やがて消えた。
それに安堵しながら目を開き、ぼんやりと宙に視線を向ける。どこか遠くで響く闇のざわめきが、耳鳴りのように聞こえてきた。


昼間、彼女と見た光景を思い出した。
ここに封じられてから長い時をこの学校で過ごしてきて、初めて行った屋上庭園。
そこに咲き誇る花々は、生きていた頃に手を入れていたものとよく似ていた。

彼女に教えた花の花言葉を思い出す。
ぽつりとその言葉を零せば、どうしてか胸が痛んだ。

何もできない自分の代わりに、大好きだった花に言葉を託した。
彼女がその言葉を知って、喜んでくれれば良いと思う。


「―――馬鹿だなぁ」


自嘲気味に呟けば、言葉は反響して廊下に響いた。
それに呼応して変調した闇たちのざわめきが、ゆっくりとこの場所に近づいていた。

深い深い闇の中へと誘うものたち。
きっと自分は眠るようにそこに堕ちて、そして変質するのだろう。


ずっと一人でこの廊下にいた頃、鬼化する事は怖くなかった。
自分はもう何もかもを失ってしまったと思っていたから。

けれど、今は違う。
手に入れてしまったものがある。
失いたくないものがある。
本当は全てを抱きしめて、抱きかかえて、いつまでもいつまでも傍に寄り添いたいのに。


それはもう、叶わない願い。
もう二度と、届かない想い。

だからこそ、先に進まなくてはならない。


傍にいれば、この力は全てに牙を剥く。
寄り添えば、必ず傷つける。

大切なものをまた傷つけてしまうくらいなら。
抗えない未来へ進んでしまう方が良い。


「だから、さよならだ」


ぽつりと、そう呟けばどうしてか視界が滲んだ。
流れる雫がぽたりと床に落ちる。

じわりと広がるそれを見ていると、ぼろぼろと涙が溢れた。



もしも、俺が―――。

あの時、言いかけた言葉が脳裏を過ぎった。


希望のない望み。
手に入らない未来。

けれど、それを望むことが許されるなら。
あの時、告げてしまいたかった願いがある。


もしも、俺が。

この心に根付く恨みを忘れて。
重たく背負う力を捨てて。

そうして、鬼になる運命から逃げ出せたら。
その時は、君と―――。


心の底から叫ぶ言葉が、頭の中を何度も巡る。
けれど、そんな事に何の意味があるのだろう。

真実になるのが怖くて。
彼女の涙を見たくなくて。

結局、別れの言葉さえ言えなかったのに。



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