放課後の廊下は、思っていたよりも人目が多い。
いつも非日常的な状況は人気がなかったから気にならなかったけれど、こんなにも人目がある中を彼と歩くのは違和感があった。

最も、彼の姿は誰にも見えていないのだけれど。


「……本当に、誰にも見えないの……?」
「何度も言ってるだろう、絶対に見えないよ」
「……じゃあ、一緒に行こっか……」


という会話を交わしたのがつい数分前の事。
彼は誰にも見られる事は無いと何度も聞いてはいるけれど、自分がこんなにもはっきりと彼を認識しているせいか不安が拭えない。

もしも今の彼が誰かの目に映ったとしたら、私は宙に浮かぶ少年を連れている人間になってしまう。
元々霊力を持っている人間なら彼が私に憑いていると思うだけかもしれないけれど。


不自然に早足になりながら廊下を進み、屋上へ続く階段へ向かう。
彼はにやにやと冷たく笑いながら、私の頭の上をゆったりと漂っていた。

ジャッカルがいる屋上がある建物の隣の棟。
そこの屋上に年中何かしらの花が咲いている屋上庭園がある筈だった。


「この上だね?」
「……うん……」


尋ねる彼に一つ頷きを返し、一応辺りを窺ってから階段に足をかける。
誰かに見られて見とがめられるような事は無いだろうけれど、完全に自分の気持ちの問題だった。

階段を上がる私の隣に彼がふわりと降り立った。
厳密には浮いているのだろうけれど、人間と同じように歩いて階段を上り始める。


「……どうしたの……?」
「どうもしない。ほら、置いて行くよ」


とん、と軽い動きで段を蹴り、彼が一息に踊り場まで飛び上がる。
慌てて後を追い隣に並べば、冷たい蒼が私を映した。

何かを悲しむようなその瞳が、一瞬だけ鏡のようにきらりと輝いた。


「……幸村君……?」
「―――行こうか」


促されるままに残りの階段を登れば、常時開け放しの扉があった。
いやに重たいそれを押し開け、一歩外に踏み出す。するりと隙間をすり抜けた彼の姿が、日光で一瞬だけ見えなくなった。

開けた空間を吹き抜ける風が心地よく、それが全身を撫でる度に花の香りを運んだ。
屋上一杯に広がる花壇と草木の風景。それは一体誰が手入れをしているのか見事に咲き誇り、秩序を保っていた。


「……綺麗、だね……」
「季節の花が咲いている。しっかりと手入れもされてるし、立派な庭園だ」
「……幸村君、ここに来たことないの……?」
「ないよ。あんまり出歩くのは好きじゃないからね」


日の元で見た彼の姿は暗い廊下で見る時よりもはっきりと透けていて、時折その姿を見失ってしまいそうになる。
注意深くその姿を見つめながら、そっと近くにあった花壇に近づいた。
色とりどりの花たちが我こそはと咲き誇り、ひらひらと可憐な花びらを風に揺らしている。飛び交う蜜蜂たちがせっせと蜜を集め、忙しなく動き回っていた。

彼は次々と花壇を移動しては植えてある花を見つめ、何かに満足したかのように頬を緩めて次の花壇へと向かうという事を繰り返していた。
滅多にない反応だったけれど、だからこそ彼が本当に花が好きだという事が感じられた。


「莉那、この花知ってるかい?」


不意にかけられた声に彼が指さす花に目をやる。
淡い青と紫色の細長い花弁を持つ花。それらが寄り添うようにして賑やかに咲き誇っていた。


「……シオン、かな……?」


あまり自信はないまま名を口にすれば、彼は静かに頷いた。


「正解、シオンだよ。じゃあ、この花の花言葉は知ってる?」
「……ううん、知らない……」
「じゃあ、今度調べてみると良い」
「……幸村君は知ってるの……?」
「知ってるけど、教えてなんかあげないからね」
「……じゃあ、今度調べて来るね……」


シオン、ともう一度口の中で呟いて忘れないように覚え込む。
家に帰って調べてみよう。ネットか本があればすぐに分かるだろう。


「……この花が、どうかした……?」
「別にどうもしないよ。ただ、目に付いただけだ。ほら、向こうにベンチがあるからちょっと座って行こうか」
「……うん……!」


ふわりと浮かぶ彼を追いかけて、ふと足が止まった。

今、誰かが屋上に来たら私は確実に不審者だろう。
誰もいない空中に向かって話しかけ、にこにこと笑っているなんて。

幽霊たちといる時はいつだってそんな不安が付きまとう。
もしも自分がそんな事をしている人を見たら気味悪く思うだろうし、近づきたくないと避けるようになるだろう。


「何やってるのさ、早くおいでよ」
「……あ、……」
「心配しなくても、誰かが来たらすぐに隠れれば良いよ。木の影くらいならいくらでも隠れる場所があるだろう」


あっさりと私の躊躇を言い当て、彼が呆れたような顔して手招く。
今度はもう迷わなかった。当たり前のように木製のベンチに座って花を眺める彼の隣にそっと腰を下ろす。

時折吹く風に乗って、花の香りが満ちた。
ゆったりと流れていく時が、あまりにも穏やか過ぎて。


悲しい事や、辛い事。
何もかも忘れてずっとこうしていられたら良いのにと、そんな事を思う。

彼が鬼化することもなくて、彼が苦しむこともなくて。
私は彼の傍にいる事が出来て、いつでも笑いあえる。
本当に、ただそれだけの日常が欲しい。

それを口にすることは、絶対にできないけれど。
でも、だからこそ、違う言葉でも伝えておきたかった。


「……幸村君……」
「なんだい?」
「……また、来ようね……」


いつかまた、こうして花を眺めたい。

永遠じゃなくて良い。
一瞬だって構わない。

こんなにも穏やかな時を、また彼と一緒に過ごしたい。


「―――そうだね」
「……今度は何の花が咲いてるかな。幸村君は何の花が好きなの……?」


春夏秋冬。
色とりどりに咲く花々を。

その季節ごとに見る事が出来たら、どんなに幸せだろう。


そう思って尋ねた問いに、けれど返答はなかった。


「……幸村君……?」


花を考えているにしても長すぎる間に、隣にある筈の冷たい横顔を見やれば、そこにはひどく苦しげな表情が浮かんでいた。


「……幸村君っ……!」


意味もなく立ち上がり、彼の正面に回り込む。
触れる事すらできないもどかしさを感じながら、私はただ彼を見つめる事しかできない。

苦しげな声を上げて、彼の身体がベンチを通過して屋上の床に倒れ込む。
そのまま下に沈んでいくことはないけれど、彼が起き上がることもない。


「……どう、して……」


私はちゃんと枷になっている筈なのに。
どうして、こんな事に。

呆然と床に膝をつき、苦しむ彼を見つめて私はそんな事を思う。
今の状況でできる事は何一つない。触れる事すらできないのだから、彼を他の七不思議の所へ連れて行くこともできない。


「……あ、真田、に……」


連れていけないのなら、来てもらえばいい。
そんな簡単な事を今更思いつき、けれどその間に彼が一人で苦しむことになる事に気づいて動けなくなった。


「……幸村君、私真田の所に行って呼んでくる……だから……」


待ってて、と言う前に彼の顔が勢いよく跳ね上がり、冷たい蒼が私を射ぬいた。


「行く、な。俺は、大丈夫、だから……」


歪んだ蒼が私を映す。
何度か荒い息を吐き出した彼は、のろのろと身体を引きずるようにしてベンチに戻った。

けれど、時折思い出したかのように痙攣する彼は、とても大丈夫には見えない。


「……幸村君、それ、どうして……」
「後遺症、みたいなものだよ。いくら枷を嵌めたって、体調がすぐに戻る訳じゃないからね。時々、こうやって発作が起きるんだよ」
「……本当に、大丈夫……?」
「もう収まってきたしね。いちいち真田に言うような事じゃない」


そう言い切られてしまえば、詳しい事が分からない私には判断の仕様がある筈もなく。
恐る恐る彼の隣に戻れば、ようやく完全に収まったのか彼が落ち着いた表情でこちらを見た。


「莉那、この前言った事覚えてるかい?」
「……この前、って……」


君は悲しまなくていいんだよ、という声が頭の中に響く。
意味も分からずに告げられた言葉は、ずっと心の奥底に引っかかっていた。


「……うん。でも、どういう意味なの……?」
「そのままの意味に思っていてくれて構わないよ。君は悲しまなくていい。君は何も悪くないんだから」
「……幸村君、それって……」
「今は分からないだろうけどね、きっとそのうち分かるよ。どうせ君は泣くだろうから、先に言っただけだ」


一つ、息をついて。
再び、彼は言い募る。


「君は何も悪くない。君は悲しまなくていいし、泣かなくても構わない。いつものように日常へ戻れば良い」


彼が何を言いたいのか、その言葉が何を指すのか、ちっとも分からない。
けれど、真剣な彼の表情を見ていると、そう言って尋ねる事も憚られた。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか。早くしないと―――夜になるからね」
「……うん……」


落ちていく夕日に透かされて、花たちが薄く赤く色づいた。
違う顔を見せる庭園に心惹かれながら、先に扉に向かう彼を追いかける。

またいつか、ここに。
彼と、共に花を見に来よう。

その言葉をしっかりと心に刻んで、扉に手を伸ばした。
そして、その扉を押し開けた瞬間だった。


勢いよく飛び出した黒い闇が、私を包み込むように覆い被さった。



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