図書室の至る隙間から、黒い影が這い出して空中を彷徨っている。
何かを探すかのように揺らめいては、時折形を崩して床に落ちる。別の影がそれを呑みこむようにして同化し、またゆらりと揺れた。

影たちは無差別に動いているようにも見えたが、この空間にいる以上それはありえないだろう。


「……蓮二、どこだ」


どこかにいるはずの七不思議の名を呼び、影を刺激しない様に一歩踏み込んだ。
一面に広がる黒い色を見やり、ちりんと鈴を鳴らす。
それに反応してか、影たちがゆらりと揺らめいて道を開いた。


「どうした、弦一郎。何か進展があったのか?」
「ジャッカルが昇華した。その報告と手伝いに来たのだが……これは一体何だ?」
「何、とは?」


影の奥の奥、最早異界じみた空間から、滲み出るようにして柳が現れる。
いつもと変わらぬ涼しげな表情が、どこか冷たい色を帯びていた。


「何故こんなにも闇を広げているのだ。あまりにこの空間を異界に近付ければ、狭間が開くぞ」
「影たちを使って世界を行き来する方法を探しているだけだ」
「しかし、それにしてもこのやり方は……」
「これだけの闇を図書室に広げて、一つ気づいた事がある。例えば、俺がこのまま影たちを使役し続けてこの場で狭間を開いたとしよう。現世から狭間という違う世界への移動。つまり、世界の行き来と言っても構わないだろう。ならば、それを利用してこの世界を出ることはできないかと考えた」
「……現世から狭間に移動するのと、現世のまま別の世界へ移動するのは少し違うのではないか?」
「そう、別の行動だ。だが、それを重ね合わせる事が可能かどうか。今俺は悩んでいるんだ」


柳の周囲の影が床を、天井を、壁を這う。
それを見つめていると、背筋に冷たいものが走った。

何もかもを呑みこむ闇。
それに呑まれれば、幽霊でさえ消失する。


「狭間のままならば、この世界から出る事が可能なのではないか。もしも可能なら狭間に人間を引き込み、依り代と為す事も出来るかもしれない。依り代ができれば、世界の外で霊鏡を探す事も―――」
「蓮二っ! 何を言っているのだ、人間を引きずり込むなど……!」
「ならば、どうする。狭間の中でも、異界でも、探せる所は全て探した。しかし、どこにも霊鏡はない。昔ならば人間の民家などにもあったが、今はもう時代が違う。行くべき所に行かねば、決して見つかる事はないだろう」
「俺たちの手の届く範囲にないのなら、諦めるしかあるまい。赤也については他の手段を……」
「他に手段があるのなら俺もそうするさ。だが、それが見つからないからこんな事を言っているのだろう」
「ならば、新たな封印を探せば良いではないか!」
「封印? 封印だと?」


柳の細い眼がぎらりと輝き、どこまでも深い闇の色がじっとりとこちらを見やる。

闇たちを操る者の印。
何よりも昏い瞳。


「どうやって新たな封印となるつもりだ。七不思議は崩れ、今精市を支えているのは人間の枷のみ。俺たちは既に七不思議となり、そして破られた身だ。これ以上、同じ要で封印となることはできない。尚且つ――これから俺たちは一人ずつ減って行く運命だ」
「俺にも分からぬ。だからこそ、その方法を探す為にここに来たのだ」
「この部屋にある本の内容は全て把握している。その俺が断言しよう。ここには封印の為の本はない」


柳の声が少しずつ激しさを帯び、その冷たさも増す。
真田の周囲の影が踊るような動きでじりじりと彼に近付いた。


「打つ手はない。ならば、破滅を待つのか。人間などの安全の為に、精市を見殺しにするつもりなのか」
「違う! 俺はそのような事を言っているのではない!」
「あれも違う、これも違う、だな。弦一郎、お前は一体何を一番に考えているのだ。精市の為を思うなら、人間を思う心は捨てろ。俺たちは既に幽霊となり、人間とは別の物になった。遥か昔人間だった頃、俺たちの生活の為に死んでいく動物の為を思った事などないだろう。それと同じだ。俺たちは人間ではない。ならば、人間を思う必要もない。違うか?」
「……人間と、幽霊と。一体、何が違う。何故人を思ってはならぬ。元は俺たちも人間だ、ならば今生きる人間たち守るべきだろう!?」
「最早二度と戻れないものの事を思ってどうする。生きていく事への執着を他人で満たすつもりか」
「…………っ!」
「精市を助けたいのなら、非情になれ。人を思い、精市の為を思わないのなら―――俺は、お前を排除するぞ」


低い声と共に、柳の表情が能面のような無に変わる。
ざわりと、柳の感情の波に呼応して、闇がざわめいた。真田を取り囲み、じりじりとその範囲を狭めていく。

思わず一歩退き、背後にも闇がいる事を思い出して動きを止めた。
闇を打ち払うのは容易いが、これだけ囲まれてしまえば逃げ出す活路を開けるかどうかは分からない。


「――蓮二、俺は幸村の事を一番に思っている。だが、その目的の為に人間や幽霊を傷つけるのは性に合わん」
「……どうやら、俺たちの道も分かれたようだな」


仕方のない事か、と呟いて柳が手を振った。
闇がそれに従って床を這い、図書室の奥の暗い空間へと戻って行く。

それを見つめてから全身の緊張を解き、凛と立ち尽くす柳を見やる。
どうしてか、その姿はひどく遠い。同じ部屋の中にいるとは思えないほど、遠く離れた場所にいるようだった。

昏い瞳は既に瞼の下に隠され、その顔には寂しげな微笑みが浮かんでいた。


「――あの日の事を、覚えているか。俺たちが精市に引きずり込まれたあの日。あの時、俺たちは言葉を交わしただろう」
「……覚えておらぬ。その時の記憶がないのだ」
「ならば、仕方がない事か。あの時から、俺はこの時を予想していた」


ふい、とおもむろに背を向けて、柳が図書室の奥へと消えていく。
追いかけようと足を踏み出せば、途端に周囲から影が矢のように飛び出して行く手を阻んだ。


「蓮二!」
「いつか、お前とは道を違えるだろうと思っていた。そして、それはおそらく精市の為だろうとも。だが、同時にその時が来なければいいとも思っていた。だが、その願いは叶わなかったようだ」
「道を違えようと、決別ではないだろう!」
「決別だ、弦一郎。俺はもう、お前たちと共にはいられない。俺は―――俺は、人間を許すことができないままだ。おそらくは、これからもそうだろう」
「……蓮二……」
「届かぬ夢など、見なければ良かったのだろうな。全てを失わぬまま、元のように戻すなど神の所業だ。俺たちは神ではない。それに気づくべきだったのだろう」
「ならば、これまでの努力でさえ無駄だったと言うのか!?」


叫びに、答えはない。
柳の細い後姿が闇の中に吸い込まれるようにして消える。

後には、ひどく空虚な図書室が残されていた。







井草の香りが満ちる静かな和室で、緑色の宝石のような瞳を退屈そうに歪ませて彼は宙に浮いていた。その瞳がこちらを映した瞬間、元のようなきらきらとした輝きを宿す。


「柳生先輩!」
「切原君、お元気でしたか?」
「元気っつーか、暇すぎて困ってたんすよ! ここ、なんもないし」
「真田君の場ですからね。仕方のない事でしょう。それより、こちらの空気には慣れましたか?」
「まだちょっと重い気もするけど、多分平気っす! なんか俺、もう向こう側には戻れないような気がするんですよねー。だから、こっちの空気に慣れねーと困るし」
「そう、ですね……」


あっけらかんと、彼にとっては非常に重要であるはずの事を言い放って、彼は笑う。
相槌をうって頷けば、子供のように顔を輝かせて手を招いた。それに従って部屋の中に入り込み、彼と向かい合わせて畳の上に腰を下ろす。

彼の表情に違和感を覚えたけれど、それが何なのかは分からなかった。


「切原君、君に言わなくてはならないことがあるんです」
「ジャッカル先輩の事っすか?」
「知っていたんですか?」
「いや、俺って鏡の世界からでも先輩たちの事を探す事多くって、なんとなく気配みたいなのを覚えてたんですけど……今その気配が一つ少なくて。場所的に、ジャッカル先輩かなぁって」
「ええ、そうです。桑原君は、昇華しました。それも、丸井君の目の前で」
「じゃあ、丸井先輩泣いてるんでしょうね」


ほんの少しだけ寂しそうに笑って、彼は何かを探すような仕草を見せる。
どこか遠くを見ているように焦点の合わない瞳が揺れて、唐突に輝きを取り戻した。


「家庭科の準備室で、仁王先輩と一緒みたいっすね。まぁ、仁王先輩がいるなら大丈夫なんじゃないですか」
「君は、悲しくないのですか?」
「ジャッカル先輩の事、ですよね? そりゃ寂しいんですけど……俺、ずっと鏡の向こうにいたから、全然会ってないじゃないですか。だから、なんか実感湧かないんです」
「鏡越しに会う事はありましたが……そう言えば、こうして直接お話しするのは七不思議を定めた時以来ですか」


現世を封じる六人と、異界を封じる一人。
学校という現世と異界が重なる鏡の世界の中で、彼は一人で長い時を過ごしていた。

鏡を覗けば彼と会う事はできたけれど、だからといって彼が孤独を感じなかった訳ではないだろう。


「君には辛い役目を負わせました。本来なら、私たちの誰かがするべきだった事です」
「俺の力が向いてるって柳先輩に言われちゃったら、やるっきゃないでしょ。そりゃちょっと虚しい時とかありましたけど、幸村部長に比べたらって思ったら全然平気っす!」


あっけらかんと笑う彼を見て、先程から感じていた違和感の正体が分かった。

彼の言動から時折感じる強さだ。


幽霊になった瞬間の彼はひどく興奮し、口汚い罵りの言葉を吐き出していた。
いきなり自分が死んだという現実を突きつけられ、それを認める事ができずに自分の力を暴走させた。

それを抑え込み、制御し、説得したのは柳だ。
単純に力の相性が良かったとも言えるが、生前の関係という理由もあっただろう。


あの時感じていた危うさや不安定さが今はまるでない。
どこまでも芯の通った強さだけが、しっかりと瞳に刻まれている。


「―――君は、強くなりましたね」
「考える時間が馬鹿みたいにありましたからねー。なんか色々考えてたら、どうでも良くなりました。色んな事がどっかいっちゃって、でもテニスしてた時の事とか忘れないんですよ。親の顔とか友達の名前とか忘れたのに、テニスの事だけ、消えないんです」


彼らを繋ぐもの。
なによりも大切な思い出。

それだけが、残っているから。


「だから、もういいかなって。だって、もうどうしようもないことじゃないですか。ならいつまでもうだうだ言っててもかっこ悪いし、それなら幸村部長の事助けたり、柳先輩と話したりしてる方が楽しいし」
「君は本当に柳君が好きですね」
「当たり前じゃないっすか! あ、柳生先輩の事も好きですよ!」
「―――ええ、ありがとうございます」


笑う彼の顔が、ひどく眩しい。
きっと、この少年が誰かを恨む事は無いだろう。

人間さえ恨む事は無く、ただ前を見て。
そうして、歩いて行ける強さがある。


「あの、柳生先輩。幸村部長って、今どんな感じなんですか? なんか副部長忙しそうだし、柳先輩に聞いたんですけど、よく分かんなかったし……」
「そうですね、では今の状態について少し話をしましょうか」
「はい!」


きらきらと瞳を輝かせて彼が身を乗り出す。

彼のような強さがあれば、あの日々が取り戻せるだろうか。
ふと浮かんだ疑問を振り払い、柳生は口を開いた。



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