思いだす光景がある。


ラケットを握って笑いあった日々。
きらきらと輝く太陽と黄色いボール。

いつだってそこには仲間がいて。
いつだってそこには笑顔があった。


永遠なんてものを信じた事はない。
それに終わりがある事は知っていた。

けれども、それは決して。
決してあんな終わり方じゃなくて。

泣き叫ぶようなあの顔が忘れられない。
二度と、あんな顔はさせたくなかった。


それだけが、望み。
それだけが、願い。

届く事のない願いだとしても。
誰かがそう願わねばやりきれないと、そう思った。







屋上を吹きぬけていく風は、霊体である自分にも感じられる。
それはいつだって変わらぬ心地よさを以て自分を慰めてくれた。

ぼんやりと屋上の隅から下界を見下ろせば、そこには人間の姿がある。
いつだって、それが日常だった。


「……ジャッカル」
「なんだ、来てたのか」


本当は長い間丸井がそこに立ち尽くしていた事は知っていたけれど、あえてそれには触れなかった。

何度も何度も口を開いては、言葉に迷って俯いて。
泣きそうな顔をして、けれどもそれすら音にはならなくて。

そうして丸井はようやく、その名を呼んだのだ。


「調子は……」
「別に病気ってわけじゃねーんだ。苦しくもなんともないさ」
「……そりゃそうだけどよぃ」


子供のような紫色の瞳が、今にも溢れそうな涙で濡れている。
それを言えば丸井はきっとそれを否定するだろうから、別の言葉を口にした。


「昔の事を思い出してたんだ」
「……昔?」
「ここからコートが見えるだろ。懐かしいなぁと思ってさ」


ふわりと隣に浮遊した丸井が、指差した先のコートを見やる。
屋上から見ると、土がきらきらと輝いて見えるそれは、昔の思い出とそっくり同じだ。

いつも、ここから地上を見ていた。
懐かしいものや新しいもの全部。
この景色全てが、自分の世界の広さだった。


「毎日、楽しかったよな。馬鹿みたいに笑いあって、同じような練習を繰り返してさ」


毎日のように怒鳴る真田と逃げる赤也。
それをからかう仁王と、たしなめる柳生。
呆れたようにため息をつきながら赤也を助ける柳。
誰よりも強く、誰よりも仲間の事を考えていた幸村。

そして、どんな時も傍にいた丸井。


「失くしてから気づくんじゃ遅いんだろうけど、幸せだったよな、俺たち」
「……おぅ」
「だからさ、あの時の幸村の顔見て、悲しかったんだ」


引きずりこまれた、という事を知った後でも思ったのはそれだけ。
泣き叫ぶように声を枯らして、彼はひどい言葉を吐き出した。

それを見て思ったのは、怒りでも憎しみでもなくて。
ただただ、そんな顔をして欲しくないという願い。


痛みがあって、苦しみがあって。
何もかもを理不尽に奪われて、彼はあんな顔をする事になった。
きっと自分が同じ立場に置かれても、同じような気持ちを抱いただろう。

だからこそ、彼には昔のように笑って欲しかった。


「俺さ、お人よしだからさ。ずっと、そんな事思ってたんだよ。もう幸村には泣いて欲しくないし、苦しんで欲しくもない。きっとあいつは自分の事許せないだろうから……だから、誰かがもう許されても良いんだって教えてやらなきゃいけないと思ってた」
「……うん」
「でも、きっと俺たちじゃそれはできないだろうし、なら他に誰がいるんだって思ってたけどさ……今は幸村にそれを教えてやる奴がいるだろう」


いつだって何かに気兼ねするような顔をして、けれど幸村の為ならと危険を承知で枷にまでなってくれる人間。
あの人間がどういう人間なのか、まだよくは分かっていないけれど。

それでも、幸村は彼女を受け入れたから。
だからこそ、もう大丈夫なのだと思った。


「俺はずっと幸村が心配だった。あの薄暗い廊下で恨みだけを糧に笑ってる姿が悲しかった。最初から、ずっとずっと悲しかったんだ。だから、心残りを定める時に幸村の幸せを願った」


自分を引きずり込んだ相手でも、それは大切な仲間だったから。
だからこそ、彼に未来があるのなら幸せになって欲しかった。


「でも、それはもう終わりだ。俺が願わなくても、俺以上にあいつの事を思ってやれる奴がいる。七不思議の封印も解けた今、俺はここに縛られる必要がなくなった」
「違う! そんなの……そんな訳ないだろぃ! 俺、俺は……!」
「丸井、お前だって俺がいなくてもやっていけるよ」
「そんな事言ってんじゃねーんだよぃ! 俺はお前がいなきゃ嫌なんだ! だって、ずっと……ずっと一緒だったじゃねーか! 今さら一人だけ先に行こうとしたって、そんなのっ……!」


声にならない声で叫んで、ぼろぼろと涙を零して。
誰よりも傍にいた丸井が自分の腕を掴んで離さない。

幸村の幸せよりも、丸井の幸せを願うべきかもしれないと、そう思ったこともある。
けれど、そんな事を願わずとも、いつだって心の底では丸井の事を思っていたから。


「……丸井」
「……なんだよっ!」
「今までありがとうな」
「……うるさい、ジャッカルの馬鹿野郎!」
「皆にも言っといてくれ。俺は――あの時、あの場所で、皆と過ごせた日々が何よりも幸せだったよ」


そう、例えるなら。
何年かかるとも分からない賭けに、躊躇なく身を捧げるほどに。



触れていた筈の丸井の手がすり抜ける。
それを呆然とした表情で見つめて、丸井が何かを叫んだ。

けれど、それはもう耳には届かない。
ゆるやかに満ちていく光が、世界を埋めた。


このままどこへ行くのだろう。
自分一人だけ先に行くのは申し訳ないけれど、謝って止められるようなものではない。

長かった歳月が、胸の奥に残る願いが。
ゆらゆらと溶け出していく。

最後に残るのは、あの時の幸せな情景。
いつだってそこにあった、あの時。

もう手に入りはしないけれど、それでも構わない。
いつだってここにそれは残っているから。


「なんだ――綺麗じゃ、ないか」


目に映るのはどこまでも美しい世界。
光の中で、穏やかに眠気が訪れた。

自分がどこにいるのかすら、分からなくなって。
閉じていく視界の中に、紫色の輝きがあった。


「――またな、丸井」


その声が、最後だった。
光に満ちた世界の中で、意識が薄れて、消えた。







「……幸村君、テニス強かったの……?」
「随分とまた唐突な質問だね。それも真田に聞いたのかい?」
「……うん。凄かったんでしょう……?」
「さぁ、そうだね。一時は神の子なんて呼ばれてたけど」
「……それは……」


単純に凄い、と言っても構わないものなのかどうか。
いまいち判断がつかずに黙れば、彼は視線を天井に向けて言葉を続けた。


「勝つことだけに意味があると思ってたからね。ずっとずっと、負ける訳にはいかないとそう思ってたよ。だから、誰よりも練習して、誰にもできない技を身につけて、誰にだって勝ってきた」
「……皆の中で、一番強かったの……?」
「そうだね、負けた事は無かったと思うよ。一応部長だし、負けちゃったらしめしがつかないしね」
「……どんなテニスをしてたの……?」
「それを説明して、果たして君は理解できるのかい?」
「……うーん、自信はない、かな……」


誤魔化す為に笑いながらそう呟けば、彼は冷たく私を一瞥してため息をついた。


「分からないのなら聞いても意味がないだろう」
「……そう、かな……」
「……全く。―――俺の得意技はね、相手の五感を奪う事だったよ」
「……五感……?」
「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五つ。まぁ最後の二つはそんなに関係がないけれどね」
「……そんな事ができるものなの……?」
「できるんだから構わないだろう。奪ってしまえば、テニスなんてできないからね。それで終わりだよ」


凄いというよりも、それは既に人間業の域を超えているような気がしたけれど、どうにも言葉にならなかった。
曖昧に頷いて、次の言葉を探す。


「……幸村君、テニス好き……?」
「好きだったよ」
「……じゃあ、他には何が好き……?」


園芸が好きで、花が好きで、テニスが好きで。
私は幸村君の事をこれだけしか知らない。

だから、もっともっと。
沢山の事を知りたい。


「どうして君にそんな事を教えてあげなくちゃいけないんだい、面倒くさいなぁ」


どうしてか、ひどく楽しげに。
猫のような笑みを浮かべて、彼が言い放った。

思わず言葉に詰まって口を閉ざせば、さらにその笑みが深くなる。


「……幸村君、楽しんでる……?」
「何をだい?」
「……私の事、いじめるの……」
「ふふ、それが分かるくらいには頭が働いてるんだね」


より一層の毒を吐く彼の言葉にため息を漏らせば、彼の蒼い瞳が私を映した。
ぼんやりとその色を見つめて、ほんの少しだけ微笑んでみせる。


ほんの少し。
じっと見ていても分からない程僅かに。

その蒼が、揺らいだ気がした。


「……幸村君……?」
「なんだい?」
「……ううん……なんでも、ない……」


違和感を抱いてじっとその瞳を見つめても、そこにあるのは冷たく輝く蒼だけ。
一瞬見えた揺らぎはどこにも見当たらなかった。


「――あぁ、そうだ。莉那、言っておこうと思ってたんだ」
「……なあに……?」
「この学校、昔は屋上庭園があっただろう?」
「……今も、あるよ……」
「そう、それは良かった。なら、今度一緒に花を見に行こう」
「……花を……?」
「久しぶりに見たくなったんだ。今の季節は何が咲いてるかな」


事もなげにそう呟く彼の顔を穴が開くほどに見つめて、ようやく一つ頷くことができた。
言われた言葉の意味を何度も何度も考え直し、自分の間違いではない事を確認する。

花を、見に行こうと言われた。
学校の中に二人で行ける屋上庭園に。

自然と頬が緩んで、胸が一杯になるほどの思いが溢れてくる。
そんな私を見つめていた彼が、少しだけ痛みを堪える様な顔をした。


「それと、莉那」
「……うん……?」
「君は、悲しまなくていいんだよ」
「……え……?」


一瞬だけ、時間が止まったような気がした。

蒼の中に映る自分が、間抜けな顔をしている。
その蒼を宿した彼は、少しだけ寂しそうな顔をして。

それ以上の言葉は紡がず、ただ私を映していた。




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