足元に広がる大量の破片を眺め、ため息を漏らした。それを咎めたのか、感情を窺わせない黒い瞳がこちらを見やる。
気まずさを感じながら床を示せば、闇を溶かしたような瞳はすぐに逸らされ、淡々と周囲を観察する作業へと戻っていった。
その邪魔をしないように場所を移動しながら口を開く。


「封印が解けたわけではないのだろう?」
「おそらく、内側からの圧力に耐え兼ね、赤也が鏡の世界から弾き飛ばされただけだろう」
「その赤也はどこに行った?」
「俺の推測だが、鏡の世界から弾き飛ばされたことによって、向こう側へと戻る術を失ってしまったのだろう。入り口を変えれば戻れるかもしれないと考え、他の入り口を探しに行った。これが最も確率が高い」
「他の入り口など……」
「ありはしない。七不思議としての役目もこの鏡を示している。他の鏡から向こう側へ行けたとしても、ここに鏡が無ければ現世とは繋がらないだろう」


言い切る声に、一切の感情はない。
言葉を返すべきか迷い、余計な事を言わない方が良いだろうと判断する。

廊下に散らばる破片をもう一度見やり、そこにもう一つの七不思議の残滓が無いことを確認した。
一週間前のあの時に鏡が割れたのだとすれば、その時から延々と学校中を彷徨って入り口を探しているのだろうか。


「赤也を探すのが先決だな。行くぞ、蓮二」


ふわり、と二つの影が空気に溶ける。

鏡の破片が広がる廊下に、沈黙が満ちた。







「……今日は、英語の授業があってね、面白い文章を訳したの……」


ほら、と薄暗い廊下でノートを広げて見せれば、彼はひどく気だるそうにそれを覗き込んだ。
小さな文字で書かれた英文を一瞥し、数秒考えてからそれを訳した。


「幸福というものは、両手の中で握りしめている間は、いつも小さくみえるのであるが、しかし、その幸福をいったん手放したとなると、途端にそれがいかに大きく、貴重なものであるか、身にしみて分るものである。……最近の授業じゃ変な英文を訳すんだね」
「……幸村君、すごいね。私、こんな英文訳せないよ……」
「授業で習ったんだろう?」
「……習うときは辞書を使うし、先生が訳してくれるから……」


ふーん、とどうでもよさそうに返事を返しながら、彼がふわりと宙を漂った。
それを見上げながら、日常というものの大切をしっかりと噛みしめる。
英文の幸福と同じだ。彼が傍にいる事が当たり前だったあの時と比べて、今は同じ空間にいられるというだけで心が満たされている。

失いかけた時の痛みは、まだしっかりと胸の奥に刻まれていた。
それはきっと、ゆっくりと癒えていくのだろうけれど、決して消える事は無いだろう。


「Happiness depends upon ourselves. 」
「……え……?」
「幸福であるかどうかということは、一にかかって我々自身にある。アリストテレスの言葉だよ」
「……ごめんなさい、全然分からない……」
「時代が違うから、勉強する内容も違うだろうね。まぁ精々留年しないように気を付けた方が良いよ。頭の良し悪しより、君は抜けてるからね」


冷たく言葉を言いながら、彼がゆらゆらと揺れる。
それを見上げていると、蒼い瞳が手に持っていたノートに向けられた。次の瞬間、それはふわりと宙を飛び、彼の目の前でページが開くようにして浮遊した。
勉強でもするかのようにぱらぱらとページをめくる彼を見上げて、驚きの溜息を一つ。こうして見ればなんとも便利な力で、少しだけ羨ましくなった。



あの日から、一週間が経った。

あんなにも荒れ狂っていた彼の力はあっさりと暴走をやめ、次の日登校した時には以前と変わらぬ彼が廊下に漂っていた。


真田と柳は衝撃が抜けると、最終的な事の顛末を他の七不思議たちに伝える為に消えた。
また会おうと真田は言い残し、柳の方は私の方を見ることもしなかった。けれど、きっと柳ともまた会う事があるだろう。彼を助けるためとはいえ、柳の闇に守られたことは事実だから、機会があればお礼を言いたい。

他の七不思議――丸井とジャッカルについてはこの一週間で何度か会って話をした。
なんとなく、彼についての話は殆どせず、あまり意味のない会話を繰り返しただけだけれど、それははっきりとした日常の象徴で、二人の存在は数少ない癒しでもあった。

柳生については、一度だけあの教室で話をした。何度か教室に行ったのだが、入れ違いになることが多く、話ができたのは一度だけだった。丸井たちと同じように差し障りのない話しかしなかったから、今度は枷について教えて貰うつもりだ。

仁王についてはあれから会っていない。元々、姿を見かける事はあっても話はしなかったのか、この一週間は姿を見る事すらなかった。どこにいるのか、あの階段に行ってみても七不思議として出会う事もなかった。

あっという間に過ぎた一週間は、本当に以前と何も変わっていないかのような日常で。
その暖かさが心地よく、けれども心の片隅にはしっかりと自分の役目が刻まれている。


彼を現世に留めるための枷。
蒼を蒼に縛るための枷。

それが、私の役目だ。


「……幸村君、何の教科が好き……?」
「特に好き嫌いはないけどね。昔は園芸が好きだったから、総合学習の時間に時々やる緑化運動が好きだったかな」
「……お花、好きなの……?」
「手をかければかけた分、綺麗に咲いてくれるからね。土に触るのも楽しいし、好きだったよ」
「……じゃあ、今度何かお花持ってくるね。何かリクエストはある……?」
「こんな所に花なんて持ってきたら枯れるだけだろう。俺じゃ世話もできないからいらないよ」


日の光の届かない廊下。
確かにここでは花が育つ事は無いだろう。

それでも、彼が望むのなら花を持ってこようと思い、一日だけ切り花を持ってこようか、鉢植えを持ってこようかと頭を悩ませる。
そんな私を見下ろしていた彼が、不意に声を上げた。


「God bears with imperfect beings, and even when they resist His goodness. We ought to imitate this merciful patience and endurance. It is only imperfection that complains of what is imperfect. The more perfect we are, the more gentle and quiet we become toward the defects of other people.」
「……え、えっと……何……?」
「このノートに書いてあるけど?」
「……あー、ちょっと待ってね、思い出すから……」


今日やった英語の授業の内容を頭に思い浮かべようと、必死に記憶を探る。
いくつか学んだ英文の中の、最後に訳した一番長い文章。それをどう訳したかを記憶の底から手繰り寄せる。


「……神は、人が神の善意に逆らうときでさえ、人を許される。私たちはこの慈悲深い忍耐と辛抱を真似するべきだ。不完全なものだけが不完全なものに不満を言う。人は完全に近づくにつれて、他人に……えーっと、他人にやさしくできる………?」
「違う。他人の欠点にやさしく寛容になる」
「……でもほら、殆ど覚えてたよ……!」


自分でもびっくりするほど、意外に内容を覚えていた。それについて喜べば、彼はつまらなそうに目を細めてノートをふわりと放り投げる。
念力で操られているのかそれは普通ではありえない軌道を描いて、私の手の中に納まった。


「ま、85点かな」
「……85点、なの……?」
「原文通りに訳すことを強要されないなら、90点くらいじゃないかな。所々、意訳になってるところもあったからね」
「……幸村君、本当に賢いね……」
「勉強自体は嫌いじゃなかったからね」


彼が机に座って勉強に励んでいる姿を想像すると、なんだか可笑しくなった。

いつか、聞いてみたいことがある。
人間だった頃の生活は一体どんな風だったのだろう。
きっと私のように寂しく見捨てられた人生ではなく、彼らには明るい毎日があったのだろう。
彼の傍には七不思議たちがいて、楽しそうに笑っていたに違いない。


大切な仲間、と彼は言った。
生きていた頃の彼に、そう呼べる存在がいた事が喜ばしい。
冷たい闇の底ではなく、彼はきっと明るい太陽の下できらきらと輝いていたのだろう。


「……幸村君……」
「なんだい?」
「……今度、幸村君の話を聞かせてね……」
「俺の話?」


不思議そうな顔をして、彼が問い返す。それに一つ頷けば、蒼い瞳がゆらりと揺れた。一瞬透けた身体がすぐに実体を取り戻し、ゆっくりと高度を落とす。


「俺の話なんて聞いてどうするんだい? そもそも、語れるものなんて何もないよ」
「……なんでも、いいの。本当になんでも。ただ、私が幸村君の事を知りたいだけだから……」
「君って、本当に変な人間だね」
「……それ、仁王にも言われちゃったよ……」
「仁王が言うなんてよっぽどだね。あいつ自体、変人なのに」


呆れる彼を尻目に、床に放り出していた鞄にノートを仕舞い込んだ。立ち上がって埃を払い、忘れ物をしていないかどうか確認する。


「……じゃあ、今日は帰るね。また、明日……」
「精々気を付けて帰りなよ」


ひらひらと手を振って、仏頂面で見送ってくれる彼を何度か振り返りながら薄暗い廊下を後にした。
既に暮れかけた日の残滓を感じながら、いつもと同じ廊下を急ぐ。


明日、昔の事を聞いてみよう。
面倒くさそうな顔をして、冷たい瞳を細めて、退屈そうな表情で、それでもきっと彼は何かしらの言葉を返してくれるだろう。

そんな事を考えていると、自然と足が軽くなるのを感じた。
じわじわと闇に沈む廊下を、私は軽やかに駆け抜けた。







冷たい鏡面に手を当て、その中に入り込もうとすれば、はっきりとした拒絶が返ってきた。
ため息をひとつ漏らして、その場に座り込む。学校中の鏡を探しまわり、何度こうして拒絶されただろう。
自分を受け入れてくれる鏡はどこにもない。早く向こう側へ戻らなくてはならないのに、いつまで経っても入口が見つからない。


「どーすりゃ良いんだよ……」


早く向こう側へ、という焦りだけが大きくなり、少しずつ身体が重くなる。
こちら側で過ごす事自体、何年振りだろう。慣れない空気が身体に纏わりついて、憂鬱な気分になった。


「他に鏡なんてあったっけなぁ」


学校中を必死で飛び回り、大きさ・形・種類を問わずできる限りの鏡を探したけれど、もう品切れだ。
これだけ鏡を試しても駄目だったのだから、自分を受け入れてくれる鏡はもうないのかもしれない。

そんな絶望的な思いでため息をついた瞬間、不意に周囲の空間が歪み、二つの影が順番に現れた。


「赤也、こんなところにいたのか」
「思っていたよりも学校を回る速度が速かったな。慣れない空間でもう少し弱ると思っていたが……」
「俺だって精一杯頑張ったんすよ! ていうか、先輩たち来るのが遅いっす!」


ようやく見つけた懐かしい顔に、全身に満ちていた緊張が少しずつ抜けていく。
泣きそうになりながら彼らに向かって文句をつければ、二人揃って呆れたような顔をした。


「それだけ元気なら大丈夫だな」
「つーか、一体何が起こったんですか? 俺、急に鏡の世界から弾き飛ばされるし、戻ろうと思って鏡探しても戻れないし……もしかして、幸村部長に何か……」
「とりあえず、場所を移そう。ここにある鏡でも、向こうへは戻れなかったのだろう?」


その言葉に肯定を返せば、柳は一つ頷いてこちらに背を向ける。
渋々疲れた身体に鞭を打って立ち上がり、その背中を追いかける。行く先はおそらく図書館だろう。

三つの影が消えた廊下には、きらきらと鏡面を輝かせる鏡だけが残された。




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