あの日、廊下で出会った彼は、猫のような笑みを浮かべてこう言った。

『君の友達になってあげる。俺は君の傍にいるよ』

けれど、その言葉を発した彼は、空気に溶けるように消えてしまって。
あの廊下の片隅、薄暗くて埃の充満した場所での出来事は、私の見た夢なのだと思った。

うまく友達を作れず、いつも一人ぼっちで。
授業を抜け出して泣いていた私が見た、一時の幻覚のようなものなのだと、自分を誤魔化すしかなかった。




授業中の静かな教室。所々で仲の良い女の子たちがくすくすと笑みを交わしている。
それは私からとても離れた世界の光景で、同時に私が憧れてやまない、普通の世界の当たり前の光景だ。

私はどうやってもそこに入り込むことのできない、不器用な人間。
どうしてこうなってしまったのかは分からないけれど、私はずっと昔からこうだった。
寂しいと思ったことはない、なんて口が裂けても言えない。私は寂しくて、寂しくて、でも自分じゃもうどうしようもなくて、諦めてしまっているのだ。


胸につっかえたような気分を振り払いたくて、大きなため息を一つ。
同時に何故だかあの日の情景が記憶から浮かび上がってきて、ひどく虚しくなった。

冷たい笑みと瞳の彼は、あの時確かに笑っていた。
霞のように消えてしまうその瞬間、その冷たさには似合わないひどく暖かい笑みで。
少しだけ期待してしまった私は馬鹿だったんだろうか。


「……所詮、夢、なのになぁ」


あれは私が見た、ただの夢。何度もそう言い聞かす。
そうしないと、心が勝手に期待をするから。
頷いてくれた彼の言葉に、期待をして弾んでしまうから。


教室の窓から吹き込む風が髪の毛を巻き上げ、咄嗟にそれを手で押さえると、風に煽られたペンが机を転がり落ちた。
かつん、と嫌に大きな音を立てて落ちてしまったペンを拾おうと、慌てて腰を浮かせる。
音をたてないように、できるだけ目立たないように、転がってしまったペンに手を伸ばす。

拾い上げようとした瞬間、手の先に冷たいものが重なった。
例えるならば、氷。けれどそれは氷のように硬くはなく、それどころか触れた感触さえなかった。


「ひっ……」


思わず漏らしてしまった声は、周囲で繰り広げられる普通の世界の音に飲み込まれた。
ペンに触れた手が人間の手のひらを突き抜けている。それは冗談のような、けれど確かな現実の光景だった。

のろのろとその手を辿り、視線を上げていく。
白い腕と、夏用の制服。ひんやりと整った顔と、冷たい瞳。
それはまぎれもなく、あの時廊下で出会った彼だった。

呆然と言葉もなく彼の顔を見つめていると、彼は鬱蒼と酷く冷たく笑った。
そしてそのまますぅっと少し離れ、空気に溶けるように消えてしまう。

彼が消えた後もぼんやりと彼がいた場所を眺めていた私は、周囲からの不審そうな視線を感じて我に返った。
慌ててペンを拾い上げ、席に戻る。そこで深呼吸をしてから、彼に触れた手をもう一方の手で包み込む。
自分のものとは思えないくらい、その手は冷たく、体温を失ってしまっていた。




授業が終わり、礼がした瞬間に私は走り出していた。
普段はうつむいて歩く廊下をひた駆け、彼と出会ったあの場所を目指す。
埃っぽい、薄暗い廊下。私が唯一安らげる、誰もいない私だけの場所。

そこはいつも通り、薄暗く、埃っぽく、そして誰もいなかった。
あの時座り込んでいた壁際まで歩き、荒れてしまった息を整える。左右を見まわして探しても、そこに彼の姿はなかった。

呼びかけようと口を開いて、そこで彼の名前を聞いていないことに気づいた。
彼は唐突に消えてしまったから、私は彼の事を何も知らないし、自分の名前も教えていない。
お互いに何も知らないのだ。何も教えあわず、話すこともなく、私たちは別れた。

なのに何故、彼は私の所にまた現れたのだろう。


「……そこに、いますか」


震える声をあげれば、それは虚しく廊下の床に消えていった。
それでも、どこかに彼がいることを信じて、私は口を開く。


「……私は、ここにいます。……あなたは、どこにいますか?」


何故会いに来てくれたのですか。
何故姿を見せてくれたのですか。
何故、消えてしまったのですか。

心の中でぐるぐると渦巻く問いが、音になることはないけれど。
それでも何かが彼に届いて、また出てきてくれるかもしれないと、そう思った。


「……あ、の……私、は……」


その先に続ける言葉が思い浮かばず、何度も迷った挙句に口を噤んだ。
響いた声はやはり誰にも届かずに、薄暗い廊下に消えていくだけ。

やっぱり、あれは見間違いだったんだろうか。
彼の事を考えすぎた私が見た、白昼夢のようなものだったんだろうか。
そんな考えが頭の隅を過ぎり、諦めが心の中に広がっていく。

ぎゅっと手を握りしめると、先ほど感じた氷のような冷たさが一瞬だけ蘇ったような気がした。
もうその手は暖かさを取り戻しているのだけれど。


「……駄目だなぁ、私」


昔から、みんなが当たり前にできることができなかった。
二歩も三歩もみんなから遅れているのが当たり前で、それならとみんなの倍の時間を費やしても、どうしても追いつけなくて。
走り続けることが辛くなって、縮まらない距離がひどく遠くて。

だから、私は……。


「また泣いてるの。馬鹿だね、本当に」
「……あ……」


壁をすり抜けてきたかのように、気づけば彼がそこにいた。
廊下の壁際、手を伸ばせば届く距離に。すぐ、目の前に。
少しだけ首を傾げて、冷たい瞳と薄い笑みを口元に浮かべた表情で。


「口を開けっぱなしにしてると、阿呆にも見えるよ。馬鹿の上に阿呆じゃやってられないだろ。口閉じなよ」
「……はい」
「ふふ、さっきの俺を白昼夢だと思ったんだろ。俺の事、あんまり馬鹿にするなよ。白昼夢になるほど俺は落ちぶれちゃいないさ」
「…はい」
「だいたい、あの時君から言ったんじゃないか。友達になろうって。だから、俺の方からわざわざ君の所に出向いたっていうのに、あの反応はないよね。人の事、化け物みたいな目で見てさ」
「はい」
「何笑ってるの。これだけ馬鹿にされて笑ってるなんて、頭大丈夫?」


いつの間にか頬が緩んで微笑んでいた。こんな表情を浮かべたのがあまりにも久しぶりすぎて、少しだけ頬の筋肉が痛かった。
彼は鬱陶しそうに私を見つめていたけれど、そのうちため息を一つついてその場に座り込んだ。
その時に一瞬だけ彼の身体が透き通ってその向こうの壁が見え、彼はやはり幽霊なのだと実感した。


「何してるの、突っ立ってないで座ったら?」
「……はい」


おそるおそる彼の隣に腰を下ろし、横目で彼を見つめる。
幽霊なのかどうかを確認してみたかったけれど、不躾に聞くと彼が消えてしまうような気がして口には出せなかった。
「……あの」
「なんだい」
「名前、を……教えてもらってもいいですか」
「あぁ、そういえば言ってなかったんだっけ。いいよ、教えてあげる」


彼の唇が言葉を刻む。
その響きを忘れてしまわないように、消えてしまわないように、私は黙って彼の言葉を聞いていた。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -