涼やかな鈴の音が、世界を満たした。


「……莉那、大丈夫か」


覚悟していた痛みはなく、代わりにかけられたのは低い声。
慌てて顔を上げれば、真田の背中が見えた。大丈夫、と声に出そうとした瞬間、その長身がぐらりと崩れる。


「……ぁ、さな、だ……!」
「真田っ! この、馬鹿野郎っ!」
「……大事、ない。やはり、幸村の力には勝てぬな」


苦笑交じりに呟いた真田が壁にもたれ掛る。一見どこにも傷は見えなかったけれど、きっと私を庇った時に彼の力を受けたのだろう。
頭の中が真っ白になり、周囲を吹き荒れる風と、苦しむ真田と、必死の形相で自分の力を制御しようともがく彼を順番に見つめることしかできない。
そんな私に、真田の手が廊下の向こう側を示す。


「次が来る……莉那、一度離れろ。枷になるにせよ、このままでは……」


真田の言葉の途中に、また鎌鼬が膨れ上がった。
目には見えないそれを肌で感じながら、真田を庇おうと身を投げ出す。


「やめろ、人間の身体では……!」
「……全く、世話が焼けるな」


すぐ目の前の床まで刻まれた裂傷が、突如として沸き起こった闇に呑まれて消えた。
冷たい黒い瞳が天井近くからこちらを見下ろし、その視線に従って闇が私と真田を取り囲む。それらが何度となく迫る鎌鼬をそのまま呑みこみ、こちらへ届かないように守ってくれた。


「弦一郎、何をしている。精市の力に勝てる筈がないだろう」
「確かに迂闊だったな……どうやら、俺は動けそうにない」
「……蓮二、二人を連れて逃げろっ! お前の力ならっ……!」
「確かに可能だが、その人間は大人しく逃げるつもりはないようだ」
「莉那、早く逃げろっ! 俺の力は簡単に誰かを傷つける、だからっ……!」


ふわりと柳が隣に降り立ち、ため息交じりに言葉を吐いた。


「弱まった封印が精市の力に耐えかね、内側から弾け飛ぼうとしている。こうなってしまっては俺たちにできることはないからな。後は赤也と――お前が最後の砦だ」
「……うん……」


吹き荒れる風が私の制服を揺らす。鎌鼬は闇に呑まれて届かないけれど、その激しさは十分に伝わってきた。
あかや、と聞きなれない名前が聞こえたような気がしたけれど、おそらくはそれが最後の七不思議なのだろう。
そんな事を考えながら、一歩踏み出す。

闇が私を守るようにずるりと蠢いて周囲につき従った。
荒れ狂う風を呑みこんで、それが私を守ってくれる。


「やめろ、来るな! 早く、逃げろっ!」
「……枷になるって、言ったでしょう……」
「そんなものいらない! 俺の力は誰だって傷つける! もう……もうあんな思いはしたくないんだっ!」
「……そうだね。誰かを傷つけるのは怖いね……」


だからこそ、そんな思いを彼にさせたくなんかない。

ぴしり、と硬い音が響いて、頬に鋭い痛みが走った。
彼に近付くにつれて激しくなる風が、柳の闇でも呑みこめないほどに膨れ上がって私の頬を切り裂く。
その痛みを感じながら、どうにか倒れたままの彼の隣に辿り着く。ぺたりと床に座り込めば、泣きそうな色を帯びた蒼と目があった。

ぽたり、と赤い滴が床に零れ、不吉な色で広がっていく。


「……やめ、ろ……頼むから……」
「……大丈夫、私は大丈夫だから……」


髪が、舞いあがる。
制服の裾が激しく揺れてはためく。

激しい風の音に紛れて、柳の声が聞こえた。


「―――狭間が、開く」


声と同時、世界が変質した。

目に見える何かが変わった訳ではないけれど、どうしてかここがいつもの世界ではないと理解できた。
柳の声を信じるならば、狭間だ。幽霊と人間が、同じ空間に存在できる場所。


風に押されながら力の限り伸ばした手が、冷たい身体に触れた。
そっと頬を撫でれば、あの時と同じように涙の雫に指先が濡れる。

怯えたような蒼が見開かれ、乾いた音を立ててその頬が裂けた。


「……幸村君っ……!」


頬の傷を皮切りに、荒れる風が彼の全身を切り裂いた。幽霊である彼から血が流れる事は無いけれど、傷口だけがひどく生々しい。
咄嗟に身体を投げ出して、冷たい彼に覆い被さった。実体のあるその身体を抱きしめて、少しでも風から守れるよう祈る。

全身に何かが叩きつけられるような痛みが走り、その衝撃で彼から弾き飛ばされそうになった。


「……っ……」
「やめろ………もう、やめろっ!」
「……嫌だっ……!」
「そんな事してたら、本当に死ぬぞ!」
「……死なないっ! 死んだり、しないっ……!」


死んだりしない。
だって私は、彼の枷になるのだから。

彼の為に、生きるのだから。


「早く、俺から……離れ、ろっ!」


蒼が、金に変わる。

ぎらりと、獣の色が輝いた。


彼の喉から唸り声が漏れ出し、大きな手が喉を掴む。ぶるぶると震えるそれにじわりと力が入り、その顔がひどく苦しげに歪んだ。
それを見つめながら、冷たい肩を掴む。力の限りにそれを握りしめて、一言囁いた。


「私は――あなたの傍にいるよ」


言葉を告げた瞬間、これまで以上の突風が廊下を駆け抜けた。
その最中、何かが割れるような甲高い音が響き、唐突に彼の身体から力が抜ける。

その身体を失わないように無我夢中でしがみつき、強く目を閉じた。







「――本当に、馬鹿な事を……」


吹き荒れた風が流れてしまえば、そこにはいつもと同じ薄暗い廊下が残った。

ぽつりと彼の呟いた声が反響し、衝撃で飛びかけていた意識を呼び戻す。
のろのろと辺りを見回せば、少し離れた所に真田と柳が座り込んでいるのが見えた。二人とも動くことができないのか、立ち上がるそぶりさえ見せない。


「……幸村、君……?」
「全くあんな方法で枷になろうとするなんて、本当に君は馬鹿だよ。一歩間違えば、枷になることができずにあのまま死んでいたかもしれない」


彼を守るために覆い被さっていた筈なのに、何故か逆に庇われるように抱きしめられていた。
全身に冷たさを感じながら、すぐ傍にある蒼い髪にそっと触れる。それは思ったよりもふわふわと、優しい感触で私の指に絡まった。


「本当に、馬鹿だよ。俺の為に枷になるなんて」
「……あのね、一つ言っても良い……?」
「なにさ?」
「……私ね、枷になる方法聞くの忘れてて……どうやったら枷になれるか、知らなかったの……」


沈黙。
そして、長い時間をおいて、深いため息が響いた。


「ねぇ、君は一体何を考えて俺の為に枷になるだなんて言葉を口走ったんだい? どうやってなれるか知らなかったのに、よくもあれだけ堂々と枷になるなんて言えたもんだね」
「……でも、ちゃんと枷になったでしょう……?」
「どうして自分が枷になれたか分からないだろう?」
「……えっと、私はどうして枷になれたの……?」
「絶対に教えてあげない」


冷たく言葉で叩ききって、ゆっくりと手の力が緩められた。
目の前にある瞳を見つめて、それがいつものような冷たい蒼である事を確認する。

獣のような金色はどこにもなくて、どこまでも冷ややかな蒼一色だ。


「……でも、本当に良かった……」


蒼に映る私が泣きそうな顔で微笑む。
それを見やり、もう一度ため息をついてから、彼はふわりと浮かび上がった。立ち上がる気力も無くそれを見つめれば、彼は天井近くまで高度を上げる。

そして、ほんの少しばつの悪そうなふくれっ面で私を見て、もごもごと何かを呟く。


「……え……?」
「だから―――ありがとうって言ったんだよ!」


唖然として不機嫌そうな顔を見つめれば、その顔がさらに凶悪そうな色に染まる。
慌てて返事をしようと口を開けば、思わず笑い声が漏れてしまった。
それを見た瞬間、彼の口から激しい毒舌が飛び出す。

甘んじてそれを聞きながら、それでも収まらない笑いの衝動を押し殺し、私は彼との日常が戻ってきたことを確信したのだった。







床に散らばった大量の鏡の破片の中で、宝石のような緑色の瞳が輝いた。
困ったように何度か瞬いて、それはじっと壊れてしまった鏡の破片を見つめる。

どれくらいそうしていたのか、不意に何かを諦めたかのように肩を落とし破片に背を向けた。
ふっと風を裂くような音が響き、それはどこかに吸い込まれるかのように掻き消える。

後には、内側から粉々に砕けたかのように散らばる、鏡の破片だけが広がっていた。




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