軽くなった心が静かに覚悟を決めた。
彼の為に、と願う彼らの思いを乗せて、私は人気のない廊下を進む。

彼の様子を見に行った真田と柳はまだ戻っていないと柳生は言ったけれど、屋上で待つよりもあの廊下にいたかった。

彼と出会った時と変わらぬまま、埃と沈黙に満ちた薄暗い廊下。
あの場所が全ての始まりだった。


渡り廊下を抜けて、階段を降りようと角を曲がる。過去の記憶から自然と手すりに手が伸び、金属製のそれをしっかりと握り締めた。
そして、一歩。きっちりと足元を踏みしめながら階段を下り、踊り場に辿り着く。
もう半分を降りる前に、ふと視線を感じて降りてきた階段を見上げた。


「……仁王……」


ぼんやりと空気に半ば溶けたまま、白銀の髪を輝かせて仁王が浮かんでいた。
名前を呼んでも返事はなく、けれども先程のように逃げるという事もなかった。金色の瞳には何の感情も浮かんではいないけれど、その奥には冷たい光があった。


「……どうした、の……?」
「柳生から話を聞いたんか」
「……うん……」
「なら言わんでも分かるじゃろうけど……柳を恨むなよ」
「……え……?」
「柳がお前さんを襲ったんは、幸村を守る為じゃった。あのやり方が正しいか正しくないか、俺には興味がないきに。じゃけんど、なんも知らずに柳の事を恨むんだけは俺は許せん」
「……恨んだり、してないよ……」


私に柳を恨む事ができる訳がない。
何度も闇に襲われて、暗闇が怖くなったけれど、結局の所柳は私を闇に呑ませる事はなかった。
警告の意味を込めて私を襲ったけれど、本当の意味で傷つけることはしなかったから。


「……柳は、幸村君の事が本当に大切だったんだね……だから、幸村君を守ろうとして私を襲ったんでしょう……?」
「あれだけ闇に襲われて、何も思わんのか」
「……ううん、すごく怖かったし、最初はどうしてこんな事をするのか分からなくて柳の事が嫌いになったよ……でも、今なら理由が分かるし、それに……」


柳生の語った話の意味。
ひどく暖かく、私を許してくれた言葉。


「……誰かを恨んでも、変わるものなんてない。憎しみも恨みも、悲しいだけだから……」


自分が痛かった事を忘れることはできない。
けれど、本当の意味でそれを誰かに分かってもらう事も、それを誰かに押し付ける事も出来はしない。
誰かが悪いとか、誰かが悪くないとか、それを決める権利は誰にもない。

誰かを悪だとするなら、それを決める人は誰よりも正しくなくてはならない。
人間はきっと、自分に何の罪もないと言い切る事はできない。


誰かが誰かを傷つけて、誰かに傷つけられて。
それを許して、それを悔いて。
その繰り返しの中で生きている。

その中で生きる限り、自分が犯した過ちを忘れてはならない。
そして何より、痛みを誰かのせいにして恨んではならない。


人を恨み、人を憎めば、冷たい闇に呑まれてしまう。


「……柳もきっと苦しかったと思う。私のせいで、傷つけちゃったと思う。だから、私は柳を恨まない。仕方ないなんて言えないし、お互い様とも言えないけど……」


私の行いがなかった事になる日は来ない。
柳の行いがなかった事になる日も来ない。

でも、それを受け入れて、自分の中で整理する事くらいならできるだろうから。


「――綺麗事じゃな」
「……そうかもしれないね。でも、少なくとも私の中ではそういう風に納得できたの……」
「それを柳や俺たちに押し付けるつもりか」
「……ううん、そんなことしないよ。私の考え方と皆の考え方は違うから。だから、私の言い分を納得できない事もあるかもしれないし、正反対の考え方もあると思う……」


人の数だけ考え方があって。
それが摩擦を起こして毎日色んな事が起きている。

皆が同じ考え方をしていたら、きっとこの世界はひどくつまらないものになってしまうのだろう。


「お前さんは……おかしな人間じゃな」


ぽつりと、ため息交じりに呟いて、仁王がくるりと背を向ける。
すぅっと、空気中に溶けるように消えようとしたその背中に声をかけた。


「……仁王……」
「――なんじゃ」
「……仁王は、幸村君を恨んだ……?」


揺れた背中が動きを止めて、ゆっくりと肩越しに振り返る。
金色の瞳が何の感情も浮かべずに、ただ私を映し出していた。

言葉を待つ私を見つめたまま、仁王の身体が宙に溶ける。
足が消え、胴体が見えなくなり、そしてようやく言葉が響いた。


「そんなもん、もう覚えとらん」


言葉の余韻と同時、完全に消えてしまった仁王の影を見透かして、握りしめていた手を緩めた。


「……覚えてない、かぁ……」


何年も、何十年も、とてもとても長い時間が経ったと皆が口を揃えて言っていた。
それが一体どれくらいの時間なのかは分からないけれど、その時の感情を忘れるくらいに長い時だったのだろう。


「……行かなきゃ、ね……」


仁王と話した事で少しだけ時間が経ったけれど、彼は還ってきているだろうか。







身体中が、痛い。
目の前が、暗い。
ひどく、寒い。
何故か、悲しい。

恨みが、憎しみが。
痛みが、苦しみが。

どうやっても消えない。
消えて、くれない。


暖かい手が欲しかった。
世界から逃げるしかないこんな自分にも、救いがあると信じたかった。

けれどそれを望む度、思う度。
かけがえのない仲間の顔が浮かんだ。

自分の感情に任せて傷つけた仲間たち。
彼らの幸せを奪った自分に、救われる権利などない。


痛みも苦しみも。

全ては罪を犯した罰。







声が、聞こえた気がした。
誰かに助けを求めるような、悲しい声。


薄暗い廊下の片隅で膝を抱えて、私はふと視線を巡らせる。
そこには彼の姿はなく、人気のない廊下にはただ埃が積もっているばかり。

埃の上に腰を下ろすという事に最初は躊躇ったけれど、何度もここに通ううちに自分の座る場所ができてしまった。
彼の居場所に設けられた、私の場所。
そこに座って、私はただ彼を待っている。



不意に、ちりん、と鈴の音が聞こえたような気がした。


「……真田……?」


慌てて立ち上がり、どこかにあの影がいないか目を凝らす。

最初は、何も見えなかった。
けれど、瞬きした瞬間、廊下の片隅が揺らいだ。

宙に浮かんだ揺らぎは一瞬で広がり、その向こうに黒く輝く闇が見えた。
茫然とそれを見ていると、その向こう側がじわりとこちら側に染み出してくる。


「……真田、なの……?」
「……違う」


返ってきたのは真田の低い声ではなく、どこか棘のある柳の声。
咄嗟に返事する事も出来ず、呆気にとられて廊下に広がる非日常を見つめるしかなかった。

揺らぎからこちら側へと出てきた柳が揺らぎに振り返り手を伸ばす。
その手に渡った影を見て、息が詰まった。


「……幸村、君っ……!」
「あまり近づくな、呑まれる」


邪険に詰られ、彼に向かって伸ばしていた手をそろりと引っ込めた。
柳が彼を支えたまま、さらに揺らぎの中に手を差し伸べる。その手を揺らぎの向こう側から伸びた手が掴み、もう一つ大きな影がはい出してくる。

それを最後に、廊下に生まれた揺らぎは少しずつ縮まり、最後には見えなくなった。

いつもと何も変わらない壁があるだけの、日常。
自分の眼で見ていなければ、そこに闇が広がっていた事など信じられないだろう。


「わざわざここで待っていたのか」
「……うん。あの、おかえりなさい……」
「うむ、大事ない。幸村の方も、多少疲弊しているだけだ」
「……無事で、良かった……」


力を失った彼の身体が、柳と真田によって廊下に降ろされる。
その瞳は薄く開いているけれど、何も映してはいなかった。

そろそろと彼の傍に座り込んで、触れられないもどかしさを感じながら手を伸ばす。
どんなに望んでも、この冷たい身体に触れることはできない。

幽霊と、人間の、変えられない違い。


「俺たちは丸井たちに話をしてくる。しばらく、幸村の事を見ていて貰えるだろうか?」
「……うん……」


柳の冷たい視線が突き刺さったけれど、静かに頷いた。
真田が柳を促し、二人はふわりと浮かび上がる。そのまま天井を突き抜けて、屋上へと行くのだろう。

丸井たちはきっと喜ぶだろう。
彼がこうして無事に還ってきたのだから。

そして、私はするべき事をしなくてはならない。


「……幸村君……」


何も映さない瞳を見つめて。
触れられない手を伸ばして。

ゆっくりと口を開く。



凍てついた心を、溶かす言葉が欲しい。
彼の心の痛みを癒す、優しさが欲しい。

彼が救われるのなら、なんだってするのに。


言葉を探して、目を閉じる。

浮かび上がるのは冷たい蒼。
その蒼の為に、私ができることは。


目を開いて、手を重ねた。
ひんやりと、そこはひどく冷たい。

その冷たさが、彼が今ここにいるという事を証明してくれていた。




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