耳の奥で、頭の中で、彼の声が木霊する。
苦しげな唸り声と痛みに引き攣った表情。
倒れこんでもがく彼に触れようと手を伸ばすのに、どうやっても彼に触れることはできない。


私が人間で、彼が幽霊だから。
決して交わる事のない、別のモノだから。


彼の蒼い瞳が変質し、獣のような輝きを宿して私を映し出す。薄く開かれた口から唸り声が漏れ、次の瞬間獣じみた咆哮が響き渡る。
苦しみを、痛みを、彼に押し付けたのは私だという事を、きっと彼は理解しているだろう。

人間に殺されて幽霊となった彼は、更なる痛みを押しつけた私を許してくれるだろうか。







夢を、見た。

ひどく生々しい、そしてどこか現実味のない夢。
獣のような咆哮が耳の奥に響き渡り、否応なく彼の苦しみを告げてくる。
所詮夢は夢でしかないと自分に言い聞かせても、彼が苦しんでいる事に変わりはないのだ。


私のせいで、彼が苦しんでいる。
私の愚かな行いのせいで。


ずきずきと痛む心を押し殺して、行きたくもない学校に向かう。
いつもと同じ通学路、いつもと同じ時間、いつもと同じ授業―――そして、いつもと同じように彼の所へ行けばいい。

彼が苦しまなくて済むのなら、枷でもなんでもなると決めた。
彼の為になるならと、真田に向かって告げた言葉に嘘はない。

けれども。
彼に会うのが、怖い。
あの冷たい蒼に映り込むのが何よりも恐ろしい。


何も知らなかったこれまでと、沢山の事を知った今と。
自分がどれだけ大変な事をしでかしてしまったのか、今なら分かる。柳がどうしてあれほどまでの敵意を向けてきたのかも理解できた。

私のせいで壊れてしまったものが沢山ある。
それらを全て元に戻すことはできない。
彼らが守り続けた日常を、取り戻す事もできない。

私は、無力だ。


「……行かなくちゃ、ね……」


既に全ての授業は終わり、教室には誰も残っていない。
本当なら、授業が終わってすぐに彼の所に行くつもりだった。彼が戻ってきているかは分からないけれど、なるべく早くその姿を見て無事を確認したかった。
けれど、その気持ちよりも恐れの方が大きく膨れ上がり、私を足止めしていた。

彼から拒絶されるのが怖い。
自分の愚かさを詰られるのが怖い。
彼の傷ついた姿を見るのが怖い。

そして、何より。
何も知らない自分が、これ以上彼を傷つけてしまうのが恐ろしい。


「……でも、行かなきゃ……」


のろのろと立ち上がり、鞄を抱えて歩き出す。
教室を出て、何も考えずに廊下を歩けばいい。そしていつものようにあの廊下へ行って、彼の姿を見て――。

そして、それから?
謝る? 無事を喜ぶ? 笑う?

彼の前に出て、どんな顔をすればいいのだろう。
どんな言葉をかけて、どんな表情で、どんな思いで――。


ぽつりと、透明な滴が床に落ちた。
いつの間にか頬に滴が伝い、床に小さな水たまりを作っていた。


「……あ、れ……何で……」


どうして泣いているのだろう。
どうして涙が零れるのだろう。
辛いのは私じゃなくて、幸村君なのに。

何度掌で拭っても、涙の滴は止まらない。
ぼろぼろと溢れて、頬を滑り、床に落ち、制服を濡らして。

嗚咽まで漏れそうになって、どうにか喉の奥にそれを押し留めた。
足の力が抜けてその場に座り込み、顔を覆って膝を抱え込む。子供のように小さくしゃがみ込んで、止まらない涙をどうにかしようと何度も何度も目元を押さえた。


痛い。痛くて堪らない。
傷つけてしまった事が、怖くて。
手に入れたものを失うのが恐ろしい。


「……馬鹿だなぁ……」


あの時、柳の警告を聞いておけば良かった。
七不思議なんて探さずに、彼の傍で話をしていれば良かったのに。

仁王と、柳生と、丸井と、ジャッカルと。
彼らと出会わなければ、そうすれば彼は苦しまなくて済んだのに。


そんな事を考えていると、不意に視界の隅を赤い色が過ぎった。
慌てて顔を上げれば、教室の床から上半身だけを覗かせて、茫然とした表情を浮かべた丸井が私を見ていた。
小動物のように丸い瞳が私を映して、困ったような色を湛えている。


「……まる、い……」
「……なぁ、莉那、屋上行こうぜ」
「……え……?」
「屋上のジャッカルのとこ、行こうぜ」


止まらない涙を零しながら丸井を見つめた私に、唐突にかけられた言葉。
それは私の行いを責める言葉ではなかった。

当たり前のように手を伸ばして、にこにこと子供のような笑みを浮かべて。
丸井は私が立ち上がるのを待っている。


「……丸井、私は……」
「まだ幸村君還ってきてねーんだよぃ。今、真田と柳が様子見に行ってるから……だから、一緒にその結果待とうぜぃ」
「……待って、だって私……」
「ジャッカル、待ってるからよぃ。柳生もいるし、もしかしたら仁王もいるかもしれねーし。あいつは気まぐれだから、いない方が多いけど。だから……一緒に行こうぜ、莉那」


繰り返しかけられる誘いの言葉。
困ったようにそれを繰り返す丸井は、どうしてか泣きそうな表情を浮かべていて。

零れ落ちる涙を拭いながら立ち上がり、差し出されたままの手を眺めて一つ頷く。
それに触れる事はできないと分かっているけれど、それでも尚差し出してくれた丸井の優しさがひどく嬉しかった。

出会うべきではなかったなんて、そんな事を一瞬でも考えた自分を叱りつける。
そんな訳がない。七不思議を探したからこそ、丸井たちと出会って笑いあえる事ができたのだから。

それだけは、決して変えられない真実だ。


「……丸井……」
「ん?」


ふわりと浮かびあがり、天井から上の階へ抜けだそうとしている丸井を見上げて、声をかけた。


「……ありがとう……」


きょとん、と不思議そうな顔をして私を見降ろした丸井が、一瞬動きを止めてからにっこりと笑った。


「おぅ、俺って天才的だろぃ」
「……うん……!」


いつの間にか止まっていた涙の跡を拭って、吸い込まれるようにして消えた丸井を追いかけて教室を飛び出した。

どれだけ後悔しても、もう事実は変えられない。
彼の苦しみも痛みも、なかったことにはできない。
だったら少しでも、彼を苦しみから救う事を考えるべきだ。

そして、幸いにして、その方法は既に示されている。


「……枷に……」


彼を縛り、現世へと留める為の、枷になろう。
彼がどれだけ私を恨んでも、憎んでも。
彼の為になることだけを考えよう。


泣いてしまうかもしれない。
怖くなって、逃げ出したくなるかもしれない。
でも、私はもう一人じゃない。
だから、大丈夫。


駆け抜ける廊下には、相変わらず人気がなく。
静まり返った校内に私の足音だけが響き渡った。



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