ずきりずきりと、一定のリズムを刻んで頭が痛んだ。頭蓋骨に直接杭を打たれているかのような感覚にうめき声が漏れ、両手で頭を抱えて目を閉じる。
あまりの痛みに無意識のうちに力が漏れ出し、周囲に風が渦巻いた。それを感じながらどうにか薄目を開き、自分が誰もいない教室にいることを確認する。今の自分に近づけば、幽霊だろうと人間だろうとただでは済まないだろう。
「う、あっ……」
ぐらりと世界が揺れる。
どうしようもない吐き気と衝動に襲われ、自分では制御できない程の力が溢れ出す。
痛みによる生理的な涙が流れるのを感じながら、ふと自分の頬に触れた柔らかい手の感触を思い出した。
暖かい、優しい手。
彼女は自分の事を優しいと言ったけれど、それは違う。
優しい心を持つ者が、こんな力を持つ訳がない。
この力は恨みの代償。
あまりに強い憎しみが自分に力を与えた。
吹き荒れる風が辺りのものをなぎ倒し、けたたましい音を立てる。うねるように広がる力を押さえようとしても、最早それらは制御できるようなものではなかった。
無理に押さえつけようとする度に頭の痛みが増した。自分の頭に爪を立てながら喉の奥から声を上げる。
その声が教室に響き、まるで獣の咆哮のようだと思った。
「……どう、してっ……」
どうしてこんなにも憎い。
どうしてこんなにも恨めしい。
どうして、こんなにも…………。
どうしてこんなに、心が痛い。
止むことのない痛みの中で、彼女が無事に学校から出られたかが気になった。
影に襲われていないだろうか。闇に呑まれていないだろうか。さっきは闇の胎動に気づいて助けに行けたけれど、今は何かがあってももう傍には行けない。
自分はこんなにも恐ろしい化け物だ。力の制御ができなければ、彼女の傍にいることはできない。
こんな状態で彼女の傍に行けば、自分は一瞬であの儚い命を奪うだろう。
彼女が人間である限り、自分の恨みは否応なく彼女にも向けられるのだから。
ぼろぼろと床に零れ落ちる涙を見つめて、抗えない衝動のままに吼えた。
どうして辛いのか、どうして悲しいのか、どうして痛いのか。
どうして、こんなにも憎いのか。
誰にも問えない問いは空気中に溶ける。
答えはない。応えもない。
それはただの残響で、そして意味のない音でしかなかった。
微笑んだ彼女の顔が瞼の裏に浮かんで、一瞬だけ全身を襲う激しい痛みが和らぐ。
けれども、次の瞬間襲った今まで以上の痛みと荒れ狂う力の衝動に、堪えきれずに床に倒れ伏し目を閉じた。
荒れ狂う力が教室中に広がっていくのを感じながら、けれどももうそれをどうにかする力はなく。
ゆっくりと、痛みだけが残る闇の中へと落ちていく。
暗闇の中でひたすらに続く痛みのリズムは、遥か昔に失った心臓の鼓動によく似ていた。
*
埃に満ちた、薄暗い廊下に彼の姿はなかった。
彼が壁の中に消えた後、どうにか動くようになった身体を引きずって家に帰り、朝一番にいつもの廊下に来てみたけれど、そこに彼はいなかった。
それから授業が始まるまでずっと彼を待っていたけれど、結局彼は現れず。
仕方なくいつも通りの授業が終わるのを待ち、ようやく全てから解放された放課後。
じっとりと薄暗い廊下は、主人がいないせいかどこか寒々しかった。
「……幸村君……」
何度か名前を呼んでみたけれど、いつものように返事が返ってくる事は無かった。
どこかに出かけているのかもしれない、と自分に言い聞かせても、最後に見た彼の瞳が否応なく不安をかきたてる。
獣のような輝きと、鏡のような煌めき。
そのどちらもが、彼を苦しめているような気がした。
ぺたりと冷たい床に座り込み、壁に背中を預けて膝を抱え込む。
時折聞こえてくる生徒たちの喧騒が、ここが現実なのだという事をはっきりと示していた。
昨日触れた彼の頬の冷たさを思い出し、少しだけ心が痛くなる。
彼が人で無いことはよく分かっていたけれど、その証をはっきりと突きつけられたような気がした。
あんなにも彼は暖かくて、優しいのに、それなのに彼の身体はひどく冷たい。
「……どこに行っちゃったのかなぁ……」
ひどく体調が悪そうだったけれど、あのままどこかで倒れたりしてないだろうか。
助けを呼ぶこともできずに座り込んでいる彼の姿が脳裏に過ぎり、背筋に冷たいものが走る。
けれど、よく考えてみれば彼は幽霊なのだ。
果たして、幽霊は体調を崩すものなのだろうか。
「……風邪、はひかないだろうし……怪我、はできるのかな……」
壁をすり抜けてしまうのに、果たしてどうすれば怪我ができるのか。
そんな事に頭を悩ませながら、ぼんやりと彼を待つ。ある程度の時間が来れば帰ろうとは思っているけれど、それまでは彼を待つことに決めていた。
ぼんやりと天井を見上げる私の耳に、鈴の音が聞こえたのはその時だった。
「……鈴……?」
ゆっくりと近づいてくるそれは、ここに誰かが近づいてきていることを示していた。
慌てて立ち上がり、鞄を抱えて廊下を見やる。先生だろうと生徒だろうと、人間に見つかると何をしているのか不審に思われるに決まっている。
この前の警備員は落し物だと言い張って逃げたけれど、それは所詮その場しのぎで何度も使える言い訳ではない。
だからといって、隠れる様な場所もないのだけれど。
全身を緊張させながら近づく鈴の音を聞いていると、不意に薄暗い廊下の一端が揺らいだ。
陽炎が立つように揺れた廊下に黒い影が浮かび上がり、一時の間に大柄な人型を模す。
ちりん、と涼しげに鈴が鳴り、影がゆっくりと近づいてきた。
先生でも生徒でもない。そして明らかに人間でさえない。
「……誰……?」
微かに震えた自分の声が廊下に響き、影が適度な距離で立ち止る。
鳴っていた鈴の音が消え、沈黙がその場を包んだ。
「……あなたも、七不思議なの……?」
「そうだ。お前が莉那だな?」
返ってきたのは低い声の肯定。
けれどもそれで目の前の影が昨日のように問答無用に襲いかかってくるものではないと分かる。
薄暗いせいでよくは見えないが、どうやら日本男児風の顔だちをしているようだ。
問われた言葉に一つ頷けば、影は小さくよし、と呟いた。
「ならば、ついて来い。俺はお前に話がある」
「……あ、あの。私、幸村君を……」
「幸村はここには来られぬ」
「……来られない、の……?」
「その事についても伝えなければならぬことがある。お前が知るべきことを、教えなければならぬのだ」
「……知るべき、こと……?」
「ここは俺の居場所ではない。一先ず、ついて来い。話はそれからだ」
それだけ言い放ち、影は鈴の音を響かせて歩き始める。
少しずつ遠ざかる背中を見つめて、私は迷っていた。
柳のような敵意も殺意も感じない。
けれども、連日続く闇や影の来襲が思い出され、ひやりと全身が冷えた。
もしもこの影が柳のように闇を操って私を飲み込もうとしたら、どうすればいいのだろう。
昨日は彼が助けてくれた。けれども、また彼が来てくれると期待してはいけない。
ぐるぐると回る思考に頭がいっぱいになり、どうしても身体が動かない。
遠ざかる影が一度振り返り、私が一歩も動いていないのを見て足を止めた。
「……どうした」
「……ごめんなさい、あの、私……」
「俺はお前に危害を加えるつもりはない。蓮二の闇をあれだけ見せられれば恐れるのも分かるが……」
困ったように言葉が途切れ、影が小さく肩を落とす。
「今、幸村は苦しんでいる」
「……え……?」
「俺たちにはもうどうにもしてやれぬ。もしも幸村を救えるとしたら、それはお前だけだ。お前が幸村を救いたいと思うなら、俺の話を聞いてくれ」
低く言葉を残して、影はまた背を向けた。先程よりもゆっくりと歩き出すそれを見つめて、言葉の意味を考える。
幸村君が苦しんでいる。
……果たして、本当に?
影は幸村君を助けたいと言った。
……それは、事実なの?
幸村君を救えるのは私だとだと言った。
……そんなことがありえるの?
ぐるぐると回る思考の中、纏まらない思いの中、それでも。
昨日の苦しげな彼の声が耳にこびり付いて消えてくれない。
離れろ、と苦しげな拒絶な声は、発した彼の方が痛みを堪えた顔をしていた。
ふと気づけば、いつの間にか足が進んでいた。
影に追いつこうと早足に進む身体を他人事のように思いながら、私はただ願う。
――どうか、幸村君が無事でありますように。