どんな深い闇の中でさえ、鮮烈に耀く光がある。
冷たい絶望の底でさえ、冷たく揺らめく彼がいる。
ただ、それだけだった。
*
目を開くと、薄暗い廊下が見えた。背中には硬い床の感触。
反射的に身体を起こそうとして、うまく力が入らずに情けなくもう一度床に沈む。その衝撃で息が詰まり、小さなうめき声が漏れた。
一瞬何がどうなっているのか分からずに頭の中が真っ白になり、どうあがいても身体に力が入らない事に気づいて何が起きたか思い出した。
黒い影と蒼い光。
圧倒的な力と冷たい声。
ぐるりと反転した世界が揺れて廻る。
「……幸村、君……?」
「あぁ、ようやく気がついたの。全く、いつまでも寝てるから、生気を吸われて死んだのかと思ったよ」
一拍の間も置かずに返ってきた返答で、内容はともかくとして彼がそこにいることを確認できた。
何度か身じろいで辺りを探れば、倒れている床にすぐ傍に半透明の彼が座っているのが見えた。
「……待ってて、くれたの……?」
「待つって、何をさ?」
「……私が、起きるの……」
「……別に待ちたくて待ってた訳じゃないけどね」
顔は見えないけれど、その声にははっきりと苦々しい、と表現するのが妥当な含みがあった。
「いつまでも馬鹿みたいに廊下で倒れてる人間を放っておく訳にいかないだろう。現世ならともかく、ここは狭間だからね」
「……狭間……?」
「あんなにも大量の影が現世に具現化したせいで、一時的にこの廊下が異界に近づいたんだよ。その影響で、影に呑まれかけた君が狭間に落ちてしまった。狭間は現世と異界の間さ。そこでは幽霊と人間が同じ空間に存在することができる。最も、長く開いている狭間は殆どないけどね」
「……閉じてしまうの……?」
「そう。今は俺がここにいるからこの狭間は開いているだけで、本当ならもうとっくの昔に閉じてる筈だよ。特定の場所にはずっと開き続ける狭間もあるけど、ここはそんな特殊な場所じゃないからね」
ため息交じりに、不機嫌そうに言葉を繋ぐ彼の声はひどく心地が良い。
それを聞きながらもう一度身体を動かそうと力を込めて、先程と同じように失敗した。起き上がるどころか、姿勢を変えるのすら困難だ。
「しばらくは動けないと思うよ。あの影たちに君の生気はぎりぎりまで吸い取られてるからね。無理に動こうとするとまた気絶するよ」
「……生気……?」
「あの影たちは亡者だ。全てを失い、人格も思考も何もない空っぽの虚ろ。亡者は人の持つ気、つまり生気を吸い取る。亡者は死者の思念や怨念の欠片が寄り集まった塊みたいなもので、生きているものに対しての執着が強い。普通なら異界から現世に現れることはないんだけど、ね」
「……じゃあ、どうして……?」
「それは君の知らなくていい事だよ」
ぴしゃりと跳ね除けるように彼が言い放ち、もう一度ため息をついた。ふわりと彼の身体が宙に浮かび上がり、天井近くからこちらを見下ろす。
冷たい蒼が迷うように揺れて、何かを言いかけるように口を開き、そしてすぐに閉じた。
何かを考えているかのように黙り込んだ彼を見上げながら、亡者に襲われた時の事を思い出す。
あの時、たすけて、と願った。
名前を呼ぶこともできなかったけれど、彼は来てくれた。
いつものように冷たい言葉を吐きながら、今も隣にいてくれる。
その事実だけが、ひどく暖かい。
「……幸村君……」
返事はなく、返るのは冷たい蒼の視線。
それを見つめて、微笑った。
「……助けてくれて、ありがとう……」
昨日の闇の中でも、そして今日の影からも。
もっと言うならば、初めて出会ったあの時から。
私は彼に何度も何度も助けられた。
彼にそのつもりがなくても、私は救われていた。
「……君は、見たんだろう?」
「……何を……?」
「俺の力を。君をあれだけ追い詰めた影を俺が蹴散らすところを」
「……見た、よ……?」
「あれを見て、君はどう思ったんだい?」
彼が何を言いたいのかが分からずに、呆然とその瞳を見返した。
そこには痛みのような、後悔のような、薄氷のような色が輝いていた。
「……どう、って……」
「何も、思わなかったの」
「……すごいなぁ、って思ったよ……」
身体を撫でた衝撃と吹き荒れた突風。
一方的になされるがまま、薙ぎ払われた影たち。
私を庇ってくれた、大きな背中。
「……怖いとは……」
「……え……?」
「怖いとは、思わなかったの」
悲しい氷のような瞳が、不思議そうな顔をした私を映しだしていた。
務めて感情を出さないように凍りついた瞳が、冷たく私を見つめている。
彼らしくもない途切れ途切れに呟かれた言葉は、うまく理解できないままに私の中に落ちていった。
「……怖い……? どうして、怖いの……?」
「この力は強すぎるだろう。俺が知っている幽霊たちは、誰も俺に勝てない。俺の力は強すぎて……だからこそ、俺は……」
「……怖くなんか、ないよ……幸村君は、優しいから……」
「俺が、優しい?」
「……私の事助けてくれたし、今も狭間を開いておくためにいてくれてるんでしょう……?」
言葉が返ってこないのは、その通りだからだろう。のろのろと身体に力を籠めれば、自分でもじれったくなるほどにゆっくりと手が自重を支えてくれた。
壁にもたれかかり、彼を見上げて言葉を探す。傷ついた子供のような目をした彼に、そんな事は無いとはっきりと告げたかった。
「……幸村君の力が強くても、弱くても、良いんだよ。幸村君は私の友達になってくれたし、私とお話をしてくれるし、すごく暖かくて優しいから……だから、大丈夫。幸村君は、怖くなんかないよ」
だって、怖いはずがない。
私は一度だって、彼の事を恐れたことはない。
何かを迷うように彼は俯いて、ゆっくりと天井から床まで下りてくる。
壁にもたれるのが精一杯の状態でそれを眺めていると、俯いたまま彼の手がひどく弱々しく伸ばされた。
「……幸村、君……?」
「移動しよう。狭間を開き続けると、また現世に影が具現するかもしれないからね」
「……でも、私まだ……」
「さっき言っただろう。狭間では幽霊と人間が同じ空間に存在することができるんだよ。だから、狭間の中でなら君に触れることができる」
言いながら、伸ばされた手が肩に触れる。
あの時、触れようとして突き抜けてしまった彼の半透明の身体は、今ははっきりとした感触を伴って私に触れていた。
触れた手が一瞬迷うように離れてから、すぐに背中に回された。驚く間もなくあっさりと抱えあげられ、思わず声が漏れる。
「……幸村、君っ……!」
「俺はね、人に殺されて幽霊になったんだ」
それは、あまりにも唐突過ぎる独白だった。
「……え……?」
「幽霊になる方法は知ってる?」
「……心残りを残すか、幽霊にひきずりこんでもらうか……」
そう、と一つ頷いて彼がふわりと移動を始める。滑るように宙を進む彼の動きはなめらかで、自動で動く床の上にでも乗っているかのようだった。
全く揺れないけれど、気分的に不安定でそっと彼の身体にしがみつかせてもらう。それに対して彼は特に何も触れず、ただ視線を何処か遠くに向けて言葉を紡いだ。
「俺をきっちり分類するなら、心残りを残した方になるんだろう。心残りなんて生ぬるい言葉じゃないけれど、ね。
気づいた時にはこの学校にいたよ。自分がどうしてこんな所にいるのか、こんな事になっているのか分からずに、途方にくれた。自分の姿が誰にも見えないし、理解できない影がいて闇があって、気が狂いそうだった」
どこに行くのだろう、と視線を前に向けてみれば、どうやらあの埃っぽい廊下へと向かっているようだった。
ふと、狭間は閉じているのだろうかと彼の背中越しに廊下の向こう側を見渡せば、そこには普段と変わらぬ廊下が広がるだけ。
狭間の中ではいつもと同じように廊下が見えていたから、閉じても変化がないのかもしれない。
「最初は自分が誰なのかすら思い出せずに、延々と学校中をうろついて、そのうちようやく記憶を取り戻した。どうしてこんなことになっているのか、何が原因なのか。……自分がもう死んでるってことに、ようやく気づいたんだ」
「……幸村君……」
「受け入れられなかったよ、最初は。でも、日が昇って沈んで、俺を取り残して現実が流れているのを見ているうちに、ようやくそれを受け入れるしかないんだってことが分かった。俺はもう生きていないし、もう元の場所には戻れないってことが」
「……幸村君……!」
「あの時から、俺は……どうしても、許せなくて…………だから……!」
「……ゆきむ、ら、くんっ……!」
私を抱えている腕が震えている。
彼の声が、震えている。
何度も名前を呼んで、ようやく言葉が途切れた。
足を止め、彼が呆然と立ち尽くす。
その頬に流れている雫に触れようと手を伸ばした。
ひんやりと、冷たい頬。
あの時触れた仁王とよく似た温度。
いつの間にか自分の手も震えていて。
どうしてか、私の頬にも涙が伝っていた。
悲しい、悲しい、とても、痛い。
きっと彼の悲しみを共有することはできない。
けれど、それを考えるだけでこんなに痛い。
この何倍、何十倍、彼は痛かったのだろう。
「どうして、君が泣くのさ」
「……だ、って……幸村君、も泣いてるっ……」
「君は最初から、ずっと泣いてるじゃないか。だから、俺はあの時……」
降ってきた言葉を思い出す。
初めて、彼がかけてくれた言葉。
私の世界を変えた言葉。
「だって、俺は人間なんか、」
彼の言いかけた言葉が途中で掻き消え、背中に回された手が一度大きく震えた。
大きく見開かれた蒼い瞳が焦点を失い、薄氷のような色もいつもの冷たい輝きも掠れて消える。
ずるりと私を支えていた手から力が抜けて、転がるようにして床に降ろされた。彼がすぐ傍に座り込み、がくがくと震える手で頭を抱えている。
そこはいつもと同じ埃に満ちた廊下。慣れた空気が肌に触れて、それが彼の非常事態を浮き彫りにした。
明らかに異常を見せる彼に対して、どうしたらいいのかが分からなかった。何度か肩に触れようとして、その度に微かなうめき声に手を引いてしまう。
名前を呼んでも彼は応えず、両手で自分の頭を握りしめていた。あまりの展開に頭がついていかず、自分の手までもが震えだす。
「……幸村君、どうしたの。幸村君……」
「……俺から、はなれ、て……」
「……え……」
「俺から離れろっ!」
いつになく激しい声と、触れようと伸ばした手を振りほどく様に乱雑に動いた彼の手。
けれど、それは私に触れることなく、ふっとすり抜け冷気だけを残した。
言葉もなくそれを見つめ、いつの間にか狭間を抜けて現世に還ってきたという事実を知った。
彼もまたそれに気づいたのか、頭に手を当てたままふわりと浮きあがった。
まだうまく動かない身体ではそれを追いかけることができず、ただ彼を見送るしかない。
壁の中に逃げ込むようにして去っていく彼は、その身体が全て壁に飲み込まれる寸前、一瞬だけ振り向いた。
蒼い右の瞳が、獣のように野生じみた輝きを宿して私を見ていた。
蒼い左の瞳が、哀しみに染まった鏡の様な表面に私を映していた。
それを最後に、彼は呻くような声の残響を残して掻き消える。
薄暗い廊下の床に座り込み、私は頬を涙で濡らしながら、彼が消えた壁を呆然と眺めるしかなかった。