昨日、廊下で気づいた時には柳も闇もそこにはいなかった。
時計を見れば自分が十分ほど気絶していた事が分かったが、特に身体に異常はなく。
元々、柳に闇に呑ませて消すつもりなどはなかったのだろう。七不思議に近づき過ぎた私への警告だったのかもしれない。

そして、今日。
丸井や柳生に会いに行こうと思っていたけれど、さすがに昨日の今日で会いに行くのは憚られた。柳のあの冷たい黒い瞳を思い出せば、彼に会おうと思う気力も無かった。
昨日叩きつけられた現実が重く全身にのしかかり、ひどく身体が重たく感じられた。

私が学校を卒業してしまえば、彼らには会えなくなる。
私はまた一人ぼっちの冷たい世界に放り出され、生きていくしかないのだろう。


「……自分の事ばっかり考えてる、よね……」


もしもの時の自分がどうなるかだけを考えている。もっと考えるべきことがある筈なのに。
ため息をついて窓の外を見上げると、本日は曇天。重苦しい雲が垂れ込め、今にも雨の雫が落ちてきそうだった。

人気のない放課後の教室。
誰かに会う気にはなれないけれど、だからといってただ帰宅する気にもなれず、ぼんやりと無為な時間を過ごしていた。


「……会えなく、なるのかな……」


もう、二度と。
あの蒼い瞳を見ることができなくなるという事を考えるだけで胸が苦しい。

胸元を手で押さえて俯けば、不意にぴしゃりと水音が響いた。窓の外に視線を向ければ、とうとう降り出した雨の雫が窓に撥ねていた。
尚もぼんやりと外を見ていると、徐々に雨脚が強まっていくのがはっきりと感じられた。


「……帰らなきゃ」


一応、傘を持ってきてはいるけれど本降りになる前に帰る方が良いだろう。
連日帰宅が遅いことに関して両親は何も言ってこないけれど、たまには早く帰った方が安心するかもしれない。

そんな事を考えながら鞄を抱えて教室を出る。扉を閉めようと手を伸ばした瞬間、唐突に世界が白く染まった。
遅れて響いた轟音に身を竦ませ、小さく息を飲む。どこか遠くで女の子の悲鳴が響いたような気がした。
ごろごろと後を引いて響く鈍い音を聞きながら、頭の片隅で雷が落ちたという事実を遅れて飲み込んだ。跳ねあがった心臓が落ち着く前にさらにもう一度。


「……ひっ……!」


近くに落ちている訳ではないと分かっていても、その轟音は恐ろしい。
時折白く輝く空を見つめて、慌てて小走りに下駄箱を目指した。轟音の合間に響く雨音がどんどん激しくなり、一気に本降りになってしまったのだと分かる。

早く帰らなかった自分を詰りながら廊下を進んでいると、不意に名前を呼ばれたような気がした。
咄嗟に足を止め、廊下を見回す。今いるのは下駄箱のある棟に繋がる渡り廊下だ。叩きつけるようにして降りしきる雨が窓ガラスに弾けている。
そう言えば、仁王にぶつかったのもこの渡り廊下だった。あの日は綺麗に空が青く染まった晴れの日で、その色が彼の瞳に似ているとそんな事を思っていた。


「……誰……?」


名前を呼ぶ、声がする。
けれどもそこには誰もいない。

人気のない廊下の先には誰もいない。
振り向いてその先を見透かしても、そこにも人影はない。

一つ息を吸い込んで、片手に握った鞄を胸に抱きしめる。かちかちと細かな音が響いて、自分の手が震えていることに気づいた。鞄の金具が触れ合って細かな音を立てているのだ。


「……誰なの……?」


昨日の今日だからか背中がひどくぞわぞわと落ち着かない。空耳かもしれないと自分を慰めても、何度も響く虚ろな声がそれを打ち砕いた。
遠くから響く声が、少しずつ近づいてくる。ざあざあという雨音と時折響く落雷の音に混じりながらもはっきりと、名前を呼ぶ声が聞こえる。

逃げようと思ったけれど、声が響いてくる方向がはっきりとは分からなかった。
廊下中から声が響いているような気がして、どこへ逃げればいいのかさえ分からない。


一際激しい音が響いて、雷が落ちた。
白く染まった視界に目を閉じ、そして次に世界が戻ってきた時、そこには黒い影があった。

昨日柳がけしかけた闇とは違う、はっきりと人の形を象った影。
顔はなく、ましてや全身がのっぺりとした黒色で造形は子供が作った粘土人形のようだったが、形は明らかに人型だった。

それらが掠れた声で何度も名前を呼びながら近づいてくる。
何度も、何度も、何度も、飽きることなく名前を呼ぶそれらの声は、ひどく乾いていた。


「……来ない、で……」


震える声でそう言葉を発しても、影は近づいてくるのをやめようとはしない。
名前を呼ばれるたびに背中に冷たいものが走り、がくがくと足が震えた。昨日の闇に呑まれた瞬間の虚無感が蘇り、恐怖が頭を埋め尽くす。
踵を返して影から逃げようとすれば、反対側の廊下の先にも同じような影が佇んでいた。
予想はできていた展開だったけれど、いざその光景を見ると逃げ場が失われた焦燥感が脳裏を過ぎった。


果たして、この影に捕まると私はどうなるのだろう。
闇に呑まれて消える? それとも、闇に、呑まれて――――……。

例えば、闇に呑まれて引きずり込まれて、そして彼と同類になれるとしたら。
幽霊になるには二つの方法しかないと柳生は言ったけれど、もしもこの闇が私を引きずり込んでくれるとしたら。
そんな事はない、と冷静な頭では分かっているのに、どうしてかその考えが頭にこびり付いて離れない。


もう二度と彼らと会えなくなるくらいなら。
いっそ、冷たいだけの世界なんて捨てて、彼らの傍に――――。

ぐるぐると回る、甘い誘惑のような考え。
それを信じて身を任せられるなら、どんなに楽だろう。


「……でも、怒る、よね……」


彼はきっと怒るだろう。なんとなく、そんな気がした。
馬鹿だね、という言葉が聞こえたような気がして、小さく笑みが零れる。

握りしめていた鞄を持ち直し、近づいてくる影と対峙する。名前を呼ぶそれらに向けて、力の限りを振り絞って鞄を振り上げた。
鞄で叩く、なんていう物理的な攻撃が影に対して有効かどうかと聞かれれば、自分でもそれはないと思うけれど今はこれしか方法が思い浮かばなかった。

案の定、するりと影をすり抜けた鞄が床を叩き、鈍い音を立てる。
影ののっぺりとした腕が伸び、肩と鞄を握る手に触れた。一瞬でぞわりと全身に鳥肌が立ち、同時に触れられたところから全身の力が抜けた。
ずるりと滑るように廊下に座り込み、勢いよく叩きつけられたお尻が鈍く痛む。
影の哄笑のような声が廊下に響き渡り、呆然とそれらを見上げるしかない私の周囲を何人もの影が取り囲んでいた。


「……柳、じゃないんだね……」


柳がけしかけてきた闇とは見た目も動きも全く違う。これが一体何なのかは分からないけれど、きっと七不思議は関係ないのだろう。
座っていることすら困難なほどに力が抜けていく。どうにか床についた手で身体を引きずるように壁際に寄せて、ぐったりとそこにもたれかかった。
影たちは周囲を踊るようにゆらりゆらりと蠢き、時折足先や肩に触れる。その度に残っていた力がどんどん失われて、とうとう人形のように身体を投げ出すしかできなくなった。
目を開けているのも億劫だったけれど、今目を閉じるとそのまま意識を失ってしまいそうな気がした。


「……たす、け……」


今更そんな事を思うなんて遅すぎるけれど。
最初から助けを求めていたら良かったかもしれない。
不自然なほどに人気のない廊下で正体不明の影に取り囲まれて、私はこのまま呑まれるのだろうか。

昨日見た蒼い輝きが脳裏を過ぎる。
柳の闇の中でさえ鮮烈に輝いた、あの蒼。
猫のように細められたそれに浮かぶのは、どこまでも冷たい感情。
冷え切って、凍えきって、どこまでも悲しい、色。


「……ゆき、む……」


声が掠れて、名前が呼べない。
唇を閉ざすこともできずに、ぼんやりと空中を見つめていた。
影たちの動きが激しくなり、四方八方から手が伸びる。視界が全て黒に呑まれて、そして―――。


「離れろっ!」


何も、見えなかった。
けれど、声だけがはっきりと。

横合いから弾かれたかのように影たちが吹き飛ばされ、廊下の隅に散り散りになる。
蒼い色が見えたような気がして、力を振り絞って唇を動かす。声にはならなかったけれど、彼はそれでも振り向いてくれた。


「どうして君はこんな事に巻き込まれてるのかな。普通の人間なら、影に取り囲まれるなんて事態には陥らないと思うんだけど」


心底呆れ返ったような声だったけれど、それでも助けに来てくれたという事実だけで十分だった。
うまく動かない表情筋を駆使して微笑もうとすれば、彼は鬱陶しげに鼻を鳴らして影たちに向き直る。
廊下の至る所に散らされた影たちは、次々に混ざり合いその大きさを増していた。大きさに比例して動きが遅くなったのか、それらはのろのろと廊下を這うようにして彼に大きな手を伸ばす。
彼の大きな背中に庇われて、私はただそれを見ていた。


「形も人格も形成できないような出来損ないの浮遊霊もどきが、俺に勝てると思うのかい?」


冷淡な声。優雅ささえ感じられる動きで手を上げた彼は、ただそれをふわりと振り下ろす。
瞬間、何一つ見えはしなかったけれど、全身を撫でる圧力のようなものを感じた。影の集まりが大きなものに殴られたかのようにぱちんと弾け、黒い靄になって辺りを漂う。
さらにそれを薙ぐように彼の手が動けば、次は突風が吹き荒れた。靄が風に揉まれて形を失い、今度こそ散り散りになって消えていく。

あまりにも呆気ない終わりだった。
圧倒的な力の差。あまりにも強大な、力。


「俺に勝てる霊なんている訳がないのに、馬鹿だね」


いつも通りの毒舌を聞くと、緊張が抜けた。辛うじて気力で保っていた姿勢が維持できなくなり、ずるりと音を立てて廊下に倒れ込む。
目まぐるしい状況の中で意識から締め出していた雨音と落雷の轟きが聞こえ始め、ようやく日常に戻ったことに安堵する。
全身の力が抜けて動くことすらままならないけれど、彼がそこにいるのを感じるだけで何一つ心配はなかった。
少しずつ視界がけぶるようにして消えていく。彼の声がどこか遠くから響いてくるような気がして、それに答えようと口を動かして――――。

それが、私の意識の限界だった。
溶けていく世界が、揺らいで、消えた。




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