薄暗い廊下の片隅は埃の匂いがした。
冷たい床にお尻をつけてしまっている私のスカートはきっと埃まみれでひどいことになっているだろう。
なかなかとれない灰色の塊。それはまるで自分自身のようだと、そんな事を思った。

何度拭っても零れることをやめてくれない涙は、ぽたぽたと廊下を濡らし、私の制服を濡らし、ひどい所では床に小さな水たまりを作っている。
ぼんやりと見開いた目にそれが映って、ひどく悲しい気持ちになった。
涙をどうにかして止めようと思うのに、嗚咽を漏らす度にぽろぽろと雫は零れ落ちてしまう。
両目一杯に涙を溜めても、すぐに許容量を超えてしまった。

泣くことすら我慢できないなんて、私はなんて情けないんだろう。
そう考えてしまうと、もっともっと悲しくなって、たくさんの涙が溢れてくる。


「……っく……ひっ……く、うぅ……」


大嫌いだった。
世界中の誰より、私は私が大嫌いだった。
世界の中でいなくていい人間がいるとすれば、それはきっと私だ。
私がいなくても、誰も困らない。否、誰も私がいないことに気づきもしないだろう。


「だい……っだいっきらい……」


死んじゃえ、と続けて呟こうと息を吸い込んで。


「へぇ、それって俺に言ってるの?」


背後から唐突に響いた声に、息が詰まって咳き込んだ。変な呼吸の仕方をしたせいで、喉に空気がつっかかってしまう。
無様に何度も咳き込んでから、ようやく振り向くことができた。


「だ、だれ……?」
「それ、俺のセリフ。どうしてこんな所で泣いてるの。湿っぽくて嫌になる。泣くなら、他の所で泣いてくれないかな」


目障りだよ、と冷たい声で吐き捨てる彼は、その声よりも言葉よりも何倍も冷たい瞳で私を見ていた。
あまりの冷たさに身体がぴしりと凍ってしまい、そのまま動けなくなる。ぽかんと口を開き、涙の雫を頬に伝わせたまま、私は彼の美しい顔を凝視していた。
彼はそんな私に向かって眉を顰め、その表情のままつかつかと近づいてきた。
互いの距離があっという間になくなり、綺麗すぎる顔がすぐ近くに来て、ようやく私は動けるようになる。


「あ、の……私……」
「なに?」
「……わ、たし……」


言葉が出てこない。喉の奥でつっかえて、ぐるぐると蜷局を巻いている。
いつも、そう。誰かを相手に喋ろうとすると、こうして喉が委縮して言葉を発せなくなってしまう。
それは病気ではなく心の問題なのだと、私を診察した医者は困ったように告げた。

そんな私を見下ろしながら、彼は唐突に手を伸ばした。
爪の先まで整った綺麗な手。そんな手が伸びて、涙に湿った頬に触れる。そのあまりの冷たさに身を震わせれば、彼が少しだけ笑ったような気がした。
涙の雫がその指に払われて、きらきらと光を反射する。それをぼんやりと見つめていると、少しだけ悲しみに埋め尽くされていた心が楽になった。


「……あの」
「なに?」


最初の言葉と変わらない冷たさ。それでも返事をして、そして話しかけたくせにぐずぐずと次の言葉を迷う私を黙って待ってくれている。
何度も口を開いては閉じて、ようやく掠れた声を絞り出す。


「……ごめんなさい。こんな所で泣いちゃって。迷惑、ですよね」
「その通りだよ。ぶっさいくな顔して馬鹿みたいに泣いちゃって。顔、ひどいことになってるよ? 自覚ある?」
「……う、はい……」
「そんなに目を真っ赤にするほど悲しいことがあるのに、一人で泣いて馬鹿だよね。泣くならさ、友達の所で泣きなよ」


冷たさの中に呆れが混じり、それが何故だか少しだけ嬉しいような悲しいような、奇妙な感覚に陥った。


「……あの、私……」
「なに?」


こんな事を自分で言うのはあまりにも情けなくて悲しくて、けれども何か返事を返さなくては焦る私はそんな事に構ってはいられなかった。
あまりにも整った顔の蒼い瞳をしっかりと見返して、精一杯の勇気で告げた。


「私、友達いないんです」


一拍おいて、彼がはぁ?という胡乱げな声を上げ、右手で藍色の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。その仕草が彼の印象よりも乱雑で、少しだけ面白かった。
冷たい蒼い瞳がじろじろと私を眺め、そしてため息を一つ。


「君さ、馬鹿だよね」
「……う、うぅ……」
「言い返せないんだ。自覚はあるんだね」
「……はい……」
「友達いないんですってさ……初対面の相手にいう言葉じゃないだろ。まぁ俺には関係のない話だけど」
「……あ、あの……」


こんなことを言うべきじゃないというのは分かっていた。
彼は本当に偶然出会っただけの人で、少しだけ優しくて私の馬鹿みたいな話に付き合ってくれただけで、ただただ本当にそれだけの人なのに。
こんなこと、頼めるような人じゃないのに。

それなのに。


「……私と、友達になってくれませんかっ……!?」


いつものように声を絞り出したつもりだったのに、飛び出した声は思ったよりも大きかった。
その大きさに一番自分が驚いて、目を見開く。彼も少しだけ驚いたような表情を浮かべて、すぐにばつが悪そうに顔をしかめた。

あぁ、やっぱりこんなこと頼むんじゃなかった。
せっかく久しぶりにまともに会話ができたのに、こんな終わり方をしてしまうなんて。

自分の情けのなさにまた少し涙が浮かび始めた時だった。
名も知らぬ彼が、にやりと。そう、にやりと意地が悪そうに笑みを浮かべてみせる。


「へぇ、俺と友達になりたいの」


にやにやと、まるで悪戯好きの猫のように笑いながら、彼が数歩足を引いた。


「……え、」


違う。足をひいたんじゃない。彼の足は少しも動いていない。
それでも彼が少し後ろに下がって、私から離れたのは確かな事実で。

彼はぽかんと間抜けな顔をした私を見下ろして、ゆらゆらと揺れていた。
にやにやと笑みを浮かべたまま、彼は座り込んでいる私を天井近くから見下ろして、ふわふわと浮かんでいる。


「……あ、れ?」


あまりにも衝撃的すぎる状況に、頭がついていかない。
呆然と目の前の光景を見つめながら、無意識のうちに言葉を漏らしていた。

彼は天井近くからふわりと舞い降りてきて、上下が反転した状態のままに私の顔を覗き込んだ。
口を開いたままの私の姿がその冷たい瞳に映りこんでいる。


「いいよ、友達になってあげる。俺は君の傍にいるよ」


その言葉はとても嬉しいもののはずなのに、どうしてか少しも嬉しくなかった。
そんな事を考えられないほど、頭の中が真っ白になっていた。


「ふふ、本当に間抜けな顔してるね。馬鹿みたいだよ」


すぅっと、彼がなめらかな動きで私から離れていく。その動きはやはり普通の人間のものとは思えなくて。
ぽかんと、私は口を開けたまま最後まで動くことができなかった。

彼はそのまま私から数メートルの距離をとり、そこでまるで空気の溶けてしまったのかのように消えてしまった。
本当に、一瞬のまばたきの間に、それが幻であったかのようなあっけなさだった。


「……ゆうれい?」


それが彼と私の最初の出会い。
あくまで一方的な、彼の気まぐれのような、一時の邂逅。

それが何を意味するのか、この時の私はまだわかっていなかった。



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