穏やかな声がその名前を呼ぶたび、抗いがたい衝動が胸の中に湧き起こる。その美しい顔が歪んで青白く染まるまで、その首を絞めてその声でその名前を二度と呼べないようにしてしまいたい。誰よりも強く、神の子とまで呼ばれた男でも、病床の身では抵抗などたかが知れている。俺の力でも、十分に彼の息の根を止める事が出来る筈だ。
その衝動が湧き起こる度に、果たして名前を呼ばれるだけの男はどう思うだろうと考えた。俺が彼を襲えば、あいつはどんな反応をするだろう。やめろと言って止めるだろうか。それとも何が起きているのか分からず、苦しみもがいて助けを求める彼を前に呆然と立ち尽くすだろうか。その表情さえもありありと想像できて、そんな自分が馬鹿馬鹿しくなった。一体何度この妄想を繰り返すつもりなのか。いつになれば自分は全てを受け入れて、この醜い妄執を捨て去る事が出来るのだろう。
「……蓮二、どうした。顔色が悪いようだが」
「少し、考え事をしていただけだ。大事ない」
「そうか。なら良いのだか」
自分はつくづく要領のいい人間だ。胸の中をどす黒く醜い妄想で埋め尽くしても、こうして顔の表面を繕って笑う事が出来るのだから。自分の中の感情が二つに分裂して、内側と外側で別々の人格が存在しているかのような気分になる。いっそのこと、多重人格にでもなってしまえれば楽になるだろう。
彼らとの友情を望む表の顔。一人だけを求め、もう一人を消し去ろうとする裏の顔。どちらが一般的に好まれるかは考えるまでもない。色恋に心を狂わせて人を殺めるなど、今時の三流小説で使い古された考え方だ。
どう足掻いても、この感情に賛同を得る事はできない。そんな事はとうに分かっていた。だからこそ、こうして自分は感情を押し隠して押し殺して、今までと変わらない関係性を保っていこうと不毛な努力を続けている。それを成功させるには、彼らとの距離を置くのが一番だと分かっていても、愚かしい未練がそれを許さない。
「幸村の体調が優れないと言っていたが、次の大会が終わるまで見舞いは控えるべきだろうか」
「そうだな。他人と接すること自体が負担になる可能性がある。完全に止める必要はないだろうが、人数を制限すべきだろう」
「うむ。では、しばらくは俺と蓮二だけで見舞うとしよう」
「了解した。他のメンバーにはそれとなく伝えておこう。お前は隠し事が苦手だろう」
薄っすらと笑みを浮かべてそう言えば、真田はうむと頷いて帽子を深く被り直した。図星を突かれた時の癖は出会った時から変わっていない。こうやって自分のデータと本人を照らし合わせて、そこにずれが無いことを確かめる。それだけで自分が真田弦一郎という人間を良く知っているつもりになっているのだから、つくづく自分はおめでたい頭をしている。こんな事になるまで、彼らの気持ちには気づく事ができず、さらにその現実を突きつけられてから自分の気持ちを知ったというのに。
「次の大会の事だが……オーダーはほぼできていたな」
「幸村と相談して決めた。万全の準備が整っている筈だ」
「そうか。ならば、何も心配する必要はないな」
「あぁ、大丈夫だ。無敗こそが俺たちの目標。それ以外は考えられぬ」
「精市が帰ってくるまで、それを貫くのが俺たちの役目という訳か」
「当然だ。あの時、俺は誓ったのだから」
三強、と。そんな言葉で俺たち三人を現したのは、一体誰なのだろう。そんな言葉は相応しくない。三という括りで縛る必要などどこにもない。元々、彼らは二人で長い時を過ごしてきたのだから。どうやっても埋められない時間の壁。その差は時折、どうしようもない孤独感を突きつけてくる。彼らが持つ人知を超越しかねない技の数々を見て、俺はただ圧倒されるしかなかった。その高みは俺のような凡庸な人間では手を伸ばす事さえ憚られるようなものだ。それについては考えても仕方がないと思うのに、その濁りは胸の奥にこびり付いて消える事は無い。
「……何故、三強なのだろうな」
「? 何か言ったか?」
「いや、独り言だ。気にしないでくれ」
思わず零れた言葉を耳ざとく拾い上げた真田に首を振り、頭の中だけでその問いについて考える。歪な三角形をあえて生み出す必要はなかった筈だ。彼ら二人で二柱。それだけで十分だっただろう。何故、俺がその間に入り込み、三強という形になってしまったのだろうか。その疑問を口に出す事はできない。そんな問いは、きっと彼には通用しないものだ。黙りこくったまま平坦な道を一定の歩調で進む。
ふと、あの日の事を思い出した。私用のせいで見舞いに行くのが遅れ、病室についた時にはもう誰も残っていなかった。見舞いに来ることはあっても精市と二人で話をするのは久々で、お互いに他には言えないような話を惜しげもなく交し合った。そして、面会時間がもうすぐ終わるというその時に、精市は言ったのだ。
「弦一郎、お前は精市の事を……」
「どうした? 俺が幸村を……」
「―――いや、なんでもない。聞かなかったことにしてくれ」
あの時の言葉は、一字一句思い出す事が出来る。衝撃で世界が揺らぎ、次の瞬間には自分でも驚くほどの衝動が湧きあがった。それが何なのか最初は理解できなかったけれど、今でははっきりと自覚している。あまりにも醜いこの衝動は、独占欲と嫉妬が混じりあったものだ。

『俺、真田と付き合う事になったよ。他の皆には内緒なんだけど、蓮二には言っておこうと思って』

あまりにも幸せそうな笑みを浮かべてそう言うものだから、衝撃が冷めぬままにおめでとうと告げる事しかできなかった。そんな特別はいらない、と喉の奥から言葉が飛び出しそうになって、何度も何度もそれを押し留めた。何故、三強などと言ったのだ。何故、俺をその輪に入れるのだ。そんな言葉は聞きたくはなかった。そんな事実は知りたくはなかった。知らなければ、俺の心に湧き上がっていた孤独感が羨望に近いものだと気づかずに済んだのに。
その穏やかな声がその名前を呼ぶ度に、例えようのない殺意が湧き上がる。その白い首を握りつぶして醜く笑えば、その時精市はどんな表情をするのだろう。絶望を感じる間もなくその命を終わらせる事が出来ればいいと願う俺は、心のどこかで彼らの幸せをも願っているのだろう。矛盾した二つの感情が同時に存在する心が、それを許容することに失敗して悲鳴を上げていた。
この感情の矛先が、一体どちらなのか自分でも分からない。何に嫉妬して、何に独占欲を抱いて、どうして殺意を滾らせるのか自分でも理解できない。ただ思うのは、何故三強だったのかという疑問だけ。自分が混じらなければ、ここまでの感情が浮かぶことはなかった。いつものように涼しげに笑って、彼らを祝福することができたはずだ。歪な三角形に取り込まれてしまったからこそ、俺は彼らを認める事が出来ないのだ。
あまりにも自分が惨めで仕方がなかった。彼らの思いを聞いてから気づいてしまった自分の心が浅ましく、ひどく虚しい。いっそのことそれを消し去ることができたら、この衝動を少しでも収める事が出来るだろうか。
見上げた空が赤く染まっている。炎のように燃え上がる夕日が、この惨めな心を焼き尽くしてくれる情景を想像して、その不毛さと馬鹿馬鹿しさに思わず笑みが零れた。


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -