初めて奴を見た時、その顔に張り付いている仮面に吐き気を覚えた。
『紳士』と誰かが奴をそう呼んで、奴はそれに答えるかのように穏やかな人格を演じて見せたけれど、その薄皮一枚下の本性は隠しきれていなかった。じわりと滲む歪んだ笑みと鋭い瞳。そのどちらも、奴は俺によく似ていた。
「柳生さん」
「はい」
「お前さん、俺にならん?」
「……はい?」
意味が分からないと言いたげに口調を跳ね上げて、奴が色素の薄い瞳を見開いて見せる。それを真っ直ぐに見返して、俺はもう一度同じ言葉をかけた。
「貴方は一体何を言っているのですか。せめて理解できる言葉で言っていただけるとありがたいのですが」
「そのままの意味じゃ。お前が俺になって、俺がお前になる。ただ、それだけの事じゃろ」
「それだけの事と言っていい事ではないでしょう。そもそも、そんな事―――」
「できる。お前さんと俺はよう似とる。絶対に、できる」
そう言い切って見せれば、奴は不快そうに顔をしかめてため息を漏らした。ずるりとずれてしまった仮面をかぶり直すかのように眼鏡に触れてから、務めて穏やかな声を返してくる。
「何を言っているのかよく分かりませんが……私は君になることはできませんよ」
「その仮面、いつまで被るつもりじゃ。お前さん、紳士なんぞ似合おうとらんぞ」
「似合う似合わないの問題ではないと思いますよ。それに、いくら似合わない紳士でも詐欺師よりはましと言うものでしょう」
そう言い切って、話は終わりとばかりに柳生が背を向ける。改めてそれを追う事はせず、離れてゆく背中を見送った。ため息を一つ漏らせば、いつの間にか自分がにやにやと笑みを浮かべていることに気づく。
「俺は諦めん」
諦める必要などない。きっと奴は俺になる。そして、俺は奴になる。ただ、それだけの事。雨が降れば地が濡れるのと同じ、必然だ。


あえて自分の人格を隠すかのように演じられる独特な人間性を見る度に、その奥底にある色が自分とよく似ているような気がして苛立ちが募った。尻尾のように伸びる髪も、奇妙な方便も何もかも自分を覆い隠す殻でしかない。その奥に籠って隙間からこちらを窺っているような、そんな印象を抱かせる男だった。
それにどうして苛立ちを覚えるのかは自分でも理解できない。いつものように穏やかな表面を見せて笑っていれば、それで終わる事なのに。言い表しようのない既視感が自分を苛んで止まない。
そんな彼から投げかけられた提案に、初めは嫌悪感を覚えた。似せようとしなくても、こんなにも私たちは似ているのに、より一層同じにしてどうするというのだろう。入れ替わる事でお互いを見失ってしまえば、それこそ目も当てられないような結果になるだけなのに。その疑問を口にすることは自分の中の何かが許さなくて、動揺を覆い隠す為に辛辣な言葉を吐いた。
そんな事が出来る訳がない。物理的に可か否かの話ではなくて、精神論だ。そんな事をしてしまえば、きっと元に戻す事はできなくなる。一歩進めば、今まで立っていた場所は崩れて消えてしまうだろう。
「仁王君」
「なんじゃ」
「君は私に、紳士の仮面は似合わないと言いましたね」
「おう」
「ならば、何の仮面なら似合うのでしょうか」
「……何言うとんじゃ、柳生さん」
金色の目を見開いて、彼は不思議そうな顔をする。その表情にどうしてかまた苛立ちが湧き起こって、自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「私は確かに紳士ではありません。皆さんが私の事をそう呼ぶから、そう演じただけの事です」
心の奥からじわりと暗い色が湧き起こる。紳士などになれる訳がない。このどす黒い感情が自分の本性なのだから。この暗さから逃げる術などある訳がない。心の底から人が変わるのは不可能だ。
「皆さんの期待を裏切る訳にはいかないでしょう? あんなにも無邪気に、私の事を信頼してくださっているのですから」
「性格悪いのー、お前さん」
「君には言われたくありませんけどね」
「それもそうじゃな。見てみんしゃい、俺たち似たもの同士じゃろ」
からからと乾いた声で笑って、彼の手が私の眼鏡に触れる。目を細めてそれを睨み付ければ、何が面白いのかその口元が深く裂けた。
「その顔じゃ。お前さんが時々見せるその歪んだ顔が、俺によう似とる」
「……人の顔をじろじろ見るのはやめていただけますか」
「いくら仮面をかぶって隠しても、お前さん自身を消す事はできん。同類が見れば、一目瞭然じゃ」
「同類? 本気で同類と言うのですか」
心から湧き上がる感情のまま、嘲りの表情を浮かべて揺れる銀色の尻尾を乱雑に掴んだ。無理矢理それを引いて彼の身体を床に引き倒す。痛みに歪んだ白い顔に触れて笑みを浮かべれば、何故か嬉しそうに頬を緩めて彼がこちらを見上げてくる。
「私の同類など、いる筈がないのです。私のように歪んだ人間は、こうやって仮面を被ってようやく人の世界に溶け込めるのですから。……異端、なのですよ。いえ、異物と言う方が正しいでしょうか。ありのままの自分など、この世界に居場所がないのです。その虚しさを、君が理解できるのですか?」
「さぁ、そんなもん知らん。そんな面倒くさいこと考えて生きとらんけんの。世界も自分もどうでもよか。どうしたってここに自分はおるんじゃ。ずるずる這おうが、みっともなく足掻こうが、生きるしかないじゃろ」
死ぬのは嫌じゃけんの、ともう一度乾いた笑い声が上がって、その声でさらに苛立ちが増した。このまま銀色の髪を引きちぎってしまおうかと半ば本気で考えて、それすらも馬鹿馬鹿しくなってやめる。きっとそんな事しても、彼は笑うだけだろう。痛みに顔を歪めても、それは反射の範囲内だ。
髪を解放して身を離せば、よっこらしょと年寄りじみた声を上げて彼は立ち上がった。それを見やり、癖になってしまった仕草で眼鏡に触れる。銀色のフレームの冷たさを指先に感じれば、心が少しだけ落ち着いた。
「この前言ったじゃろ。俺とお前さんはよう似とる」
「またその話ですか。あの時、はっきりとお断りしたでしょう」
「あれくらいで俺が諦めると思いなさんな。俺は諦めんし、諦める必要もない。お前さんは必ず頷いて、俺と入れ替わる。同類、じゃけんの」
「……君の戯言に付き合う暇はありません」
「他に逃げ場はなか。俺以外に、誰がお前さんを理解してくれるんじゃ? こればっかりは、参謀でも幸村でも無理じゃ。お前さんの事を理解できるんは、俺だけ。それを忘れんな」
酷く嬉しそうな、子供のような言葉を吐いて、彼がふらりと猫のように消えていく。その背中を見送って、手の中に残った髪の毛の感触を制服で拭った。気持ちの悪さは消えない。どんなに強く拭っても、皮膚に張り付いてしまったかのように残ってしまう。
無意識のうちに舌打ちが漏れていた。ぎりと口の中で奥歯が軋む音がして、顔が歪んでいるのが自分でも分かった。こんな顔を見られたら、さらに彼を喜ばせる事になるだろう。けれど、どうしてもこの衝動を抑える事ができない。
同類と言った彼の言葉が耳から離れない。図星を突かれたつもりはないけれど、その言葉はじわりじわりと心の中に沁み込んできた。理解者など必要ないと自分に言い聞かせても、彼の笑みが浮かんできてその否定を打ち壊す。
どうやら、自分は彼の罠に嵌まってしまったようだ。それを認めるのは癪だけれど、どうやってもこの違和感を拭えないのだから仕方がない。
「詐欺師、ですか」
蔑称のような言葉を呟いて、もう一度眼鏡のフレームに触れた。自分の体温が伝わっているのか、それはいつもの冷たさではなく生ぬるい感触を返してくる。
「……難儀な事になりましたが―――仕方がありませんね」
だからと言って、あっさりと彼の願いを叶えてやるつもりはない。所詮罠にかかった獲物でも、矜持というものは持ち合わせているつもりだ。それが芯を持つ限り、彼にも抗う事ができるだろう。きっと彼はそのささやかな抵抗を見つめて、いつ全てを諦めるかと楽しげに笑うだろう。その猫のような笑みが想像できて、自然と口元が吊り上った。
歪んだ彼と歪んだ自分。双方がぶつけ合うのは認められない歪んだ感情。それが巡り、終わる先はどこだろう。果たしてこの世界の中にその場所はあるか―――。そんなつまらない疑問が脳内を巡り、そして消えた。



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