目を閉じれば何も見えない。
耳をふさげば何も聞こえない。
ねぇ、ねぇ。
君は一体どこにいるの?
俺は一体どこへ行けばいいの?





病院の床は思っていたよりも冷たかった。
宣告を聞いてしまったあの日も、同じ床に座り込んだはずなのだけれど、あの日の事はあまり覚えていない。
医師の言葉だけが鮮明に残って、いつまでもいつまでも俺を苦しめている。
いつもベッドから眺めている窓の外の世界を、今日は床の上から覗いてみる。
視点が下がったせいか、いつも見えている町並みはどこにも無くて、あるのは手を伸ばせば届きそうな青い空。
手が届かないなんて、嫌というほど分かっているのだけれど。
顔を上げているのが辛くて、自然と顔が床に向く。いつの間にか目を閉じていて、白く輝いているはずの床さえ見えなかった。

冷たい。すごく、冷たい。
じわじわと床から這い上がってくる冷気が、俺の心に浸透する。
凍りついてしまえと、そう諭すみたいに。
凍ってしまえば何も悲しくないのだと、何も感じることはないのだと、そう囁いている。
何かを掴みたくて手を伸ばしても、そこにあるのはつるつるとした平らな床だけ。
爪を立てようにもその硬さに叶う訳がなく、かつんと微かな音を立てただけだった。
どんどん身体が冷えていくのが感じられ、その冷たさが俺の心を蝕む度に一つずつ希望の光が消されていく。
全ての光が消え去った時、俺には一体何が残るのだろう。
俺はその時、何を思うのだろうか。

どこまでも堕ちていくような思考の片隅で、遠くから近付く足音を聞いたような気がした。






「幸村、調子は……」



いつものように扉を開けて、白く清潔感の溢れる病室を覗き込んで、その瞬間呼吸が止まってしまいそうになった。
通常ならベッドで横たわっているはずの彼が、冷たい床の上に座り込んでいたから。
中途半端に途切れてしまった声に反応することもなく、まるで神にでも祈るように頭を垂れていたから。



「何をしているのだ、幸村。早くベッドに戻らんか!」
「………うるさいよ、真田」



力無く、茫然自失といった体で言葉を返す彼は、それでも顔を上げることはない。
慌てて駆け寄り、その腕を掴むと、驚くほどの力でそれを振り払われ、思わず息をのんだ。
すぐ傍にいるはずの彼がとても遠いような気がして、この手はもう二度と届かないような気がして。
けれどそれ以上に何ができるという事もなく、ただそこに立ち尽くすしかない。



「ゆき、むら……?」



がらんどうの病室を満たす沈黙。
いつでも破れそうで、そしてきっと俺からは破れないそれは、彼の空虚な心を示しているようだった。
しん、と新雪が積もった時のような厳かで深い虚無感。
無理矢理に彼に触れようとすると、彼を壊してしまいそうだった。

一体、どれだけの沈黙と時間を費やしたのだろう。
呼吸さえも殺して沈黙する俺を尻目に、彼は唐突に声を上げた。



「ねぇ、真田」
「……どうした?」



あまりにも緊張状態で喉を締め付けていたからだろうか、思うように声がでない。
無様に掠れた声を気にする所作もなく、彼は俯いたまま言葉を紡ぐ。



「明日、じゃなくてもいいんだ。いつでも良い。でも、なるべく早く頼みたいことがある。聞いてくれるかな?」
「あぁ、分かった。俺にできることなら何でもしよう」
「じゃあ、さ。退部届、持ってきてくれるかな」
「……なんだと?」
「退部届が欲しいんだ。もっと言えば、テニス部を辞めたい」
「何を……何を言っている!?」



咄嗟に彼の肩を掴み、心の荒れるがままにそれを揺さぶる。
どこか遠くを見ている彼が煩わしくて、無理矢理こちらに顔を向かせたけれど、彼の瞳に俺は映らない。
そこにあるのは絶望という名の暗い闇だけ。
彼はもう、俺の手を振り払おうとはしなかった。
ただただ、甘んじて罰を受けるかのように俺のされるがままになっていた。



「答えろ、幸村!何故そのような事を……!」
「理由を教える必要があるのかな?俺はテニス部を辞めたい。君は俺の頼みを聞いてくれると言った。だから退部届が欲しいと頼んだ。別に真田じゃなくても良い。蓮二でも柳生でも、それこそ赤也だって良い。ただ、君が一番早かっただけだよ」
「あの時誓った約束を忘れたのか!?共に三連覇を遂げようと、誓ったではないか!」
「うん、そうだね」
「ならば、何故……!?」



彼は言葉を返さない。
よくよく見れば、いつの間にかその目は閉じられていて、もはや何も映してはいなかった。
その姿が逆に彼の意志の強さを感じさせ、思わず全身の力が抜ける。
肩を解放された彼は、それでも頭を垂れたまま眠るように目を閉じていた。



「俺は、そんなものは持ってこない。許可もしない。約束を破るのは性に合わんのだ。何としても、俺はお前と三連覇を成し遂げて見せる!」



身じろぎ一つしない彼に言葉を叩きつけ、激情のままに身を翻す。
部屋から出て扉を閉めてしまう瞬間、微かに彼の嗚咽が聞こえた様な、そんな気がした。





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