彼は強かった
けれど、彼は悲しかった





屋上の扉を開くと、人気のないコンクリート張りの床に上に彼が寝転がっていて、一瞬死んでいるのではないかと慌てた。
傍に近寄って隣に立ちつくすと、それまで閉じていた瞳が素早く開いて俺の姿を映し出す。背後には空も映し出されていて、その瞳が一枚の絵のようにも見えた。


「幸村、何をしている」
「……昼寝」
「病室に戻れ。まだ絶対安静だと言われているだろう」
「……うん」


ぼんやりと空を映したまま頷くだけ頷いて動こうとはしない彼に向かってため息を一つ。いつもならそれで渋々起き上がってくれるはずなのに、何故か今日は微動だにしなかった。
感情がさっぱりと抜け落ちてしまった瞳からは何も読み取れなくて、仕方がなくその場に腰を下ろす。
春にしては寒々しい風が吹き通って、入院着一枚の彼が寒くはないのかと心配になる。それについて尋ねようとした瞬間、ふいに笑い声が起きた。


「……ふふふふふ…あははははっ!」
「幸村、一体どうした?何か良い事でもあったのか?」
「いいことなんてあるわけないだろ。今日ね、検診の時に言われたんだよ」
「何を?」


沈黙。彼の顔をちらりと見やると、どこを見ているのかさっぱり分からない瞳にはまだ遠い空が映し出されていた。


「手術はできる。でも……成功してもまたテニスができるようになるかは、分からないんだって」
「………そう、か」
「失敗、するかもしれないって。失敗したら─────死ぬかもって」


暗い話題のはずなのに、彼はあまりにもあっさりと言葉を吐き捨てる。それについていけなくて、思わず眉を寄せた。返すべき言葉が見つからずに黙りこむと、それまで小さく笑い声をあげていた彼も口を閉ざす。
風の吹く音とどこか遠くから聞こえる人間の声。それがノイズのように耳の裏に張り付いて、非道く気持ちが悪かった。


「俺、どうすればいいんだろうね」
「恐れているのか」
「ううん。手術自体は、ぜんっぜん怖くない。だって、俺死ぬ気ないし」
「ならば、何を迷うことがある」


よいしょ、と気の抜けた声を上げながら彼が立ち上がって、フェンス替わりに張り巡らされている鉄格子に向かって遠ざかっていく。鉄格子の傍でこちらに向き直った彼が、まるで鳥籠に閉じ込められた鳥に見えて悲しくなった。


「手術は怖くない。でももしも、手術が成功してもテニスができなかったら?────テニスができない身体で、生き永らえてしまうことが怖いんだ。テニスができなくなってしまうなら、死んでしまった方が良い」
「何を言っている!死んでしまえばもう何もできないのだぞ!?」
「何もできなくてもいいよ。俺にとってはテニスが全てだ。テニスができないなら、他に何かをする必要性が見つからない」
「────俺を……俺を置いていくつもりか」


咄嗟にはなった言葉は彼を引きとめるための言葉。今にもこの狭い鳥籠の中で息絶えてしまいそうな彼を、無理矢理鎖に捕えて留め置くための言葉だ。
こう言えば、彼が俺のために生きてくれるということを知っている。それを利用する俺は─────非道く浅ましい人間だ。彼のために、と謳うように唱えながら自分のために彼を生かそうとしている。


「テニスが───テニスがもしもできなくなったら、その時は俺を支えるために生きてくれ。お前がいないと、立海は三連覇を果たせない」
「ラケットを振れない、握れない俺に何の意味があるっていうんだい?傀儡のように君の傍で、君の思うまま動かされていろとでも?」
「生きる意味が必要ならば、それで十分だろう。もしもお前がテニスができなくなったら、俺のためだけに生きろ。いいな?」
「……君は強引だね」


馬鹿にしたように、皮肉でも吐き捨てるように、彼は唇を吊りあげた。そして、何かを諦めたように首を振る。


「分かった。手術を受ける。駄目だった時は────君の傍で傀儡になって三連覇を見届けるよ」
「何としても、三連覇を達成する。だから、その時まで生きるのだぞ」
「……分かってるよ」


小さく頷いて空を見上げた彼の瞳には、一体何が映っていたのだろうか。最後の最後まで、その瞳の先にあったものは俺には理解できないものだった。






「たわけが」


あれだけ生きろと言ったのに、と小さく呟く。どちらの言葉にも返事は返ってこなくて、それでも彼は生きているのだと彼に取りついている機械の表示が告げていた。

手術は成功。けれど─────恐れていた通り、テニスが二度とできない身体になってしまって。それを悔いた彼は、屋上の鉄格子から身を投げた。
意識不明の重体。手術をしたばかりの身体が大量の出血に耐えられるかどうかが生死を分けるという。


「傀儡になれと言ったが……本当に人形になれと言った覚えはないぞ」


意識をなくして、自我をなくして。人形になって傍にいろと願ったのではなかったのに。生きてテニスができなくても、全員で誓った三連覇の誓いを傍で見ていて欲しかっただけだったのに。
彼は、あの時何を見つめていたのだろうか。今さらながらにそんなことが気になって仕方がなかった。


「たるんどる」


低く呟いた声に反応するように、周囲の機器が激しい警告音を立てた。扉が開いて、数人の医師が飛び込んでくる。作業の邪魔にならないように外に出され、廊下で待っているように告げられる。
閉じていく扉の向こうで、彼が歪んだ笑みを浮かべていたような、そんな気がした。





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